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長篠の戦いからみる、武田信玄と織田信長の関係とは?

長篠の戦い

戦国時代にその名を轟かせた武将を問われたら、武田信玄と織田信長が漏れることはまずないでしょう。

甲斐国(現・山梨県)を本拠に関東一帯にまで勢力を誇った武田信玄は、緻密な領地経営力と戦国最強とうたわれた騎馬軍団、用意周到な戦略と、内外にまったく隙を見せない堅実さを極めた武将でした。

対して織田信長は大胆で斬新な発想を次々と行動に移すまさしく天才型の人物で、その知略と勢いは天下統一にあと一歩のところにまで行き着いたことは御存知の通りです。

まったく正反対のタイプといえる2人は、お互いに注目し長い間友好的な関係を築いていました。最終的に敵対した原因は、延暦寺や足利義昭から武田家への救援要請という外からの働きかけです。

対決を避け続けた武田信玄と織田信長は、結局一度も直接戦うことはなく、決着がついたのは信玄の死後でした。

今回は戦国時代を代表するこの二人の武将の関係について、ご紹介します。

【甲斐の虎】武田信玄

武田信玄

戦国最強の騎馬軍団を率いて勇名を轟かせた武田信玄でしたが、その真価は武力よりもむしろ内政にあったといってもよいでしょう。甲斐国は武田信玄の手によって安定したと言っても過言ではありません。

それは武田信玄の生い立ちにも関わってきます。信玄にとって甲斐は何よりも優先して守るべき土地だったのです。

国を守るために父を追放する

武田信玄は甲斐国守護であった武田信虎の嫡男として、大永元年(1521年)に生を受けました。

武田家は甲斐を治める守護職でしたが、信玄が生まれたときは内乱状態にありました。さらに東に北条氏、南に今川氏、西に諏訪氏、北には村上氏や小笠原氏といった豪族たちがひしめいており、四方を囲まれいつ侵攻されるか分からない状況にあったのです。

父、信虎は戦に強く苛烈な行動力で領地内を統一した有能な戦国大名でしたが、その性格は暴虐でたびたび重臣を感情に任せて斬り捨てました。その結果、臣下たちは信玄を主に担ぎ、信虎は国外に追放します。

環境がそうさせたとはいえ、信玄は親不孝者の汚名をかぶったことになります。それは同時に信玄の思考を縛ったことでしょう。この手で親を追い出した以上、甲斐国を守らねばならないと。

実際、その後の信玄の政略戦略は自国を整備し守ることを目的にしていると考えると、非常に分かりやすくなります。

四方を囲む強大な敵国に備え富国強兵に励む

前述したように、甲斐は四方を敵国に囲まれていました。しかも並の相手ではありません。特に東の北条氏と南の今川氏は、その当時並ぶものが少ないほどの勢力をもっていました。

信玄は甲斐国を守るために、富国強兵策を押し進めます。

もともと甲斐国は名馬に恵まれた土地で「甲斐の黒駒」といえば京の都にも知られているほどです。さらに隣国の信濃も良馬の生産地として有名でした。

信玄は北条氏と今川氏に対抗できる力を馬に求め、そのためもあって信濃攻略に全力を注ぎます。信濃を手に入れた結果、信玄は最盛期には約9000騎にも及ぶ騎馬隊をつくります。これが戦国最強とうたわれた武田騎馬軍団です。

また、信玄が行った内政の事例として釜無川の治水事業は外せません。これもまた富国策の一環でした。

山間地である甲斐国は耕作地も狭く、水害による国力へのダメージは他国の比ではありません。信玄が工夫をこらして治水に尽力したため、水害が目に見えて減少したうえに開墾も進み、安定した収穫が見込めるようになりました。信玄の治水対策は「信玄堤」と呼ばれ、後の江戸時代にも特に流れが激しい河川の整備に応用されています。

領内の金山開発も信玄の内政事業の成果です。豊富な埋蔵量を背景にした莫大な軍資金は、軍事はもちろん外交戦略も支えました。

戦う前に勝利する。用意周到な戦略の妙味

武田信玄は戦上手とされますが、その強さの秘訣は戦場での用兵術というよりも事前準備にありました。情報を手に入れ、謀略を練り、戦う前に勝利する条件を整える軍略、すなわち戦略こそが武田信玄の武将としての本質です。

たとえば前述した信濃の諏訪氏攻略戦(1542年)では、家督を継いだばかりであるにもかかわらず謀略を用い、諏訪一族である高遠頼継を寝返らせ利用しています。さらに和睦した後に当主・諏訪頼重を甲斐国へ連行し自害させ、その娘を側室に迎え武田家に取り込んでしまうのです。

逆にいうと準備ができていない状態で戦う場合には敗れる場合もありました。

信濃攻略の後半戦である村上義清との戦「上田原の戦い」は、信玄にとって人生初の負け戦であり、板垣、甘利といった重臣を失ったほどの大敗でした。しかし、それはあくまでも戦場における敗北で、最終的には村上を打ち破っています。

武田信玄といえばライバル上杉謙信との5度に渡る「川中島の戦い」が有名ですが、戦場では引き分けでも最終的に目的である北信濃の支配権を握ったのは信玄でした。

このように、信玄の戦は常に最終的に目的を達成しています。また、自国内を戦場にしたことは一度もありません。必ず先手を打ち、攻め入ることで状況をその手に握っていたのです。それは戦略に長けた信玄ならではの、難攻不落の城を建築するよりも優れた防御法といえるでしょう。

このように信玄の政略戦略をみていると、その基本思想は「自国の繁栄」にあるように思えます。表面的な苛烈な戦略や用意周到さに目を奪われますが、信玄は他国を支配下においても本拠地を甲斐国から移すことはありませんでした。 その意味で信玄と正反対だったのが織田信長です。

天下統一目前まで迫った織田信長

織田信長

織田信長の人生を追っていくと、生い立ちから政略戦略、目指す人生の方向性もすべてに渡って、武田信玄と正反対のように感じられます。

大きな違いは信玄が主に自国の繁栄を求めたのに対して、信長は天下統一に邁進したことでしょう。だからこそ信長は優れた才能を存分に生かし、天下にあと一歩のところまで迫ったのです。

尾張の大うつけと呼ばれた風雲児

織田信長は天文3年(1534年)に、尾張国の大名である織田信秀の嫡男として生まれました。

幼少期から青年にかけて、周りからすると理解できない言動をとることが多く「尾張の大うつけ」と呼ばれていたといいます。

しかし、父・信秀はそんな信長を跡継ぎとして大切に育てました。臣下たちには理解されず、後年信長の弟である信勝と跡目争いが起きることになります。

父にうとまれ、臣下によって担ぎ上げられた信玄とは、この時点から正反対といえるでしょう。

その後、家督を継いだ信長はその才能を周囲に見せつけ、天下に向かって織田家を引っ張っていくことになります。

大きな転換期はやはり今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」です。

当時の今川氏と織田氏との間には圧倒的な戦力差があり、普通に考えれば敗北は確実でした。そんな戦況下で、信長は地の利と天候の変化を味方につけて突撃し、見事に勝利を掴みます。

そして当時今川氏に仕えていた徳川家康と手を結んで、東の抑えにしました。

この破格の勝利によって、信長は尾張の大うつけから完全に脱して、天下に躍り出たのです。

海外の文化を次々取り入れる度量

信長は当時のどの武将よりも鉄砲に注目していたことは、よく知られている事実です。

ポルトガルやスペイン渡来の品々(南蛮品)にも興味を持ち、気に入ったものは積極的に手に入れていました。

そんな海外への窓口になっていたのがイエズス会の宣教師です。信長自身は東西にかかわらず宗教というものに批判的であったようですが、イエズス会とは一定の交流を持っていました。

逆にイエズス会の方は、日本にキリスト教を広めるための後ろ盾として信長をみていたようです。イエズス会に所属していたルイス・フロイスが書き残した『日本史』には、信長を高く評価している表記が多くあります。

鉄砲の輸入や西洋的な戦術論もイエズス会を通して学んだという説があるほど、信長とイエズス会はつながっていたようです。

このように、信長は興味があるものや知識を手に入れるためなら、人種や文化、宗教の違いなど関係なく接して、利用する度量がありました。

天下布武の意思

約100年におよぶ戦国の世において、大名はそれぞれの目的のために競い合いましたが、実際に全国を統一しようとした者は実はほとんどいなかったのではないでしょうか。

信長は美濃を攻略した後「天下布武」という印象を用い始めます。これは「天下を武力で統一する」という意思表示だったという説や「足利将軍家の治世を復活させて天下を安んじる」という意味だったとする説などあり、正確な信長の望みは分かっていません。

しかし、どちらの説にしても信長が戦国の世を終わらせようとしていたことは変わらないでしょう。

現実に信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を室町幕府第15代将軍にして、その後見人になります。その後、義昭と対立するようになると、朝廷の後ろ盾を得て天正元年(1573年)に義昭を追放し、室町幕府を終わらせました。そして織田政権を立て、安土城に拠点を移し、天下に号令をかけ始めます。

天正10年(1582年)におきた本能寺の変で命を落とすまで、信長は政権を樹立していたのです。

豊臣秀吉、徳川家康との関係

徳川家康

愛知県を中心に中部地方では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を「三英傑」と呼ぶようです。

正式な用語というわけではありませんが、実際に戦国時代を終わらせ江戸時代をつくる流れのなかで、この三人が密接な関わりがあったことは明白でしょう。

しかし、信長からすれば、この二人には明確な差があったはずです。

秀吉は臣下です。有能で信長配下のなかで徐々に頭角をあらわしていきますが、部下に違いはありません。

比べて家康は、実際はどうあれ対等な同盟相手でした。しかも家康は幼いころに人質として織田氏に囚われていましたから、信長からすれば弟分の幼馴染といった立ち位置です。

同時に戦略上の家康の価値は、京に向かう信長の背を守って東方の脅威を抑える信頼できる壁役だったでしょう。

信長にとっての家康は、心情的には親戚のようなものだったかもしれませんが、外部協力者でした。だからこそ信長が本能寺で命を落としたとき、部下である秀吉は家中の問題としてすぐに動けましたが、同盟相手である家康はまず徳川家と自国を守るために動くことになり、天下争いで秀吉に後れを取ることになります。

織田信長は、従来の常識にとらわれない改革者であり、日本全国を視野に収めていました。

室町幕府を再建しようと試み、将軍足利義昭との対立でそれが無理と分かれば、自身で政権を確立します。自身の政略を実現するためなら、拠点を移すこともためらいません。

このように、自国の繁栄を第一目的とする武田信玄とは、天下布武を志す織田信長は、求めるもの自体がまったく違っていたのです。

武田信玄と織田信長の関係

前述してきたように、武田信玄と織田信長は根本的に考え方が異なる武将でした。

そのためかどうかは分かりませんが、双方とも極力戦闘を避けて友好関係を築いており、ついに一度も直接対決をすることなく終わっています。 信玄と信長は互いをどのように考えていたのでしょうか。

桶狭間の戦いによって互いを認識する

桶狭間の戦い

信玄と信長が互いを認識するきっかけになったのは、信長と今川義元との決戦となった桶狭間の戦いでした。

前述したように、信玄にとって今川氏は甲斐国の南方に君臨する無視できない存在でした。その難敵を信長が打ち破ったことで、信玄を取り巻く均衡が崩れたのです。

この時点では、徳川家康が今川から独立すると共に信長と同盟を結び、今川への侵攻を始めたため、信玄が注意しなくてはならないのは家康となり、接点は増えませんでした。

信長の方から婚姻関係を結ぶ

次の接点は、後に室町幕府の将軍になる足利義昭が幕府再興のために動き出した永禄8年(1564年)辺りでした。

このとき信長は上杉謙信と接触を持ち始めていましたが、その過程で信玄を強く意識したようです。自身の養女を信玄の子である勝頼に嫁がせようと働きかけます。信玄も快く受けて、両家は婚姻関係を結ぶことになります。

この友好外交は信長にとって非常に重要だったらしく、この養女が子を産んで亡くなるとすぐさま自分の息子である信忠に信玄の娘をめとらせました。

京に上り政権を確立したい信長にとって、信玄は背面の敵であり、絶対に動いてほしくない相手でした。この外交戦略は、まず自国を守ることを優先して積極的な天下統一を目指していなかった信玄としても悪い提案ではなく、両家は合意の上で戦いを避けたのです。

友好の亀裂は将軍家の謀略と宗教問題から

このように対決を極力避けてきた両家に亀裂が入ったきっかけは、信長が行った比叡山延暦寺の焼き討ちでした。

信長は元亀2年(1571年)に天台宗の総本山である延暦寺を焼き払い、僧も子どもも問わずその場にいたすべての者の首をはねたといいます。信長にはそれ相応の理由がありましたが、討たれる側の僧としては受け入れる訳がありません。

天台座主の覚恕法親王は甲斐国へ亡命し、信長討伐と天台宗の再建を願ったのです。本人も仏門に入っていた信玄は、さすがに信長のやり方を非難して覚恕法親王を保護しました。

さらに同じ頃、信長によって担ぎ上げられ将軍に就いた義昭は、信長が自分をないがしろにしていることに不満を抱き、信玄を始めとする有力大名に信長討伐を呼びかけていました。

この2つの要因が重なり、信玄はようやく重い腰を上げて西上作戦にとりかかります。この作戦のとき、同じく義昭の指令に立ち上がった浅井長政、朝倉義景と戦っていた信長は信玄の相手をする余裕などなく、直接対決は家康が担当します。家康の生涯でもっとも危険な大敗を喫した三方ヶ原の戦いはこのときのことです。

もし信玄がこの作戦の途上で病に倒れなかったら、さすがの信長も背後を強襲され命を落としていたかもしれません。

このように見ると、信長のほうが信玄を警戒しており、なんとか戦を避けようと外交していたと思われます。前述したイエズス会のルイス・フロイスが著した『日本史』には、信長が常にその動向を恐れていた敵の1人として、信玄の名を挙げているのです。

逆に信玄の方はというと、信長の動きを探ってはいましたが積極的に討とうという動きはまったくといっていいほど感じられません。最後に西上作戦を行ったのも、将軍と天台座主という政教のトップクラスに頼られたからであり、信玄が望んで動いたわけではないのです。

この頃には信長がすでに実質的な政権を握っていたことを考えると、信玄には天下への野望などなかったようにさえ思えます。

信玄没後の長篠の戦い

長篠の戦い

ご紹介してきた通り、戦場で直接会うことがなかった武田信玄と織田信長の戦いは、後年、武田氏を継いだ勝頼との決戦という形で実現します。

その勝敗を決したのは、次世代の兵器である鉄砲の運用でした。

長篠の戦いの経緯

前述した足利義昭の企みを退けて政権を確立した信長は、信玄を失った武田氏に対しても積極的に動き出します。勝頼もまた織田や徳川へ何度も侵攻していました。両者の戦いはもう避けられないとことに来ていたのです。

天正3年(1575年)に勝頼は武田氏を裏切って徳川についた奥平貞昌を討つために、長篠城を攻めました。これが長篠の戦いの始まりとなります。

貞昌が籠城して耐えている間に準備を整えた信長と家康の連合軍は、設楽原で勝頼と対戦します。

鉄砲が勝敗を決した、戦いの結末

長篠の戦いの根幹は、武田が誇る騎馬軍団をいかに攻略するかでした。その答えとして信長が考案したとされているのが鉄砲の三段撃ちです。

当時の鉄砲は一発撃つ度に先端から弾と火薬を詰めなくてはなりませんので、連射ができませんでした。それでは騎馬隊のスピードにかなわないと考えた信長は、鉄砲隊を三班に分け「弾込め・構え・発射」という発砲の行程をそれぞれの隊に振り分け交代で銃撃させたのです。

この連射戦術と馬のスピードを殺し攻撃を防ぐ馬防柵を組み合わせることで、信長・家康連合軍は、勝頼と武田騎馬軍団を完膚なきまでに叩き伏せます。

それは銃器を本格的に使った新しい戦術の勝利でした。

この結果、勝頼は戦場を離脱しますが、大幅に戦力を失います。信長との和睦を試みますが叶わず、天正10年(1582年)に信長と家康の連合軍に再度攻め込まれ、勝頼は命を落としました。

甲斐武田氏は滅亡したのです。

本当は違った?資料が少ない長篠の戦い

以上がよく知られている長篠の戦いの顛末ですが、実は長篠の戦いは一次資料が少なく、真実の姿がよくわかっていません。

鉄砲の総数もはっきりせず、そもそも鉄砲の三段撃ちも実際にはなかったという説すらあります。また、地形が騎馬戦術に向いていないため、武田側は下馬して戦ったという資料もあり、今までの長篠の戦いとはまったくイメージが異なる戦場だった可能性があります。

ただ、信長が多くの鉄砲を用いて勝利を掴んだのは間違いなさそうです。

長篠の戦いにかんしては、さらに調べてみると諸説あって面白いですよ。

まとめ

いかがでしたか。

武田信玄と織田信長の関係を調べてみると、2人の方向性の違いが浮き彫りになります。

武田信玄は苛烈な戦上手とされながらも、その本質は堅実で有能な政治家といったほうが近いでしょう。信玄の内政手腕は甲斐国という山々に囲まれた地を、住みよい豊かな国に変えました。

また戦にしても戦場で勝敗を争う戦術家というよりも、戦う前に勝利条件を整え、たとえ戦場で負けたとしても目的を達成する超一流の戦略家といえます。

自国に戦を持ち込まず、用意周到に主導権を握って常に外で戦う信玄は、国を治める者として卓絶していました。

しかし、どちらかといえば自国の繁栄こそが目的で、武力をもって積極的に戦国時代を終わらせるという考えは持っていなかったように思えます。

信玄に比べると織田信長は天才型の改革者でした。若い頃から普通の尺度では測れない発想と行動力を持ち、新しいことや気に入ったものは次々と取り入れていきます。

一国というよりも日本全国をみて、天下を統一する野望をもっていました。実際に本能寺の変に至るまでの10年程ですが、政権を握り日本の舵取りをしています。必要ならば本拠地を動かす程度のことは少しもためらいません。

このように戦国時代の中でも飛び抜けた力を持っていた信玄と信長ですが、その方向性はまったく違っていました。故に互いに戦を避けて友好関係を結び、一度も直接戦うことはなかったのです。

もし信玄と信長の生まれた土地が逆だったなら、京都へ上がりたい信長と、その途上で自国を守る信玄は否応なくぶつかったかもしれません。

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