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人斬り以蔵と呼ばれた岡田以蔵の愛刀「肥前忠広」とは?

岡田以蔵

幕末四大人斬りのひとりといわれた岡田以蔵は、その類まれなる剣術の腕を買われ、土佐勤皇党に入り、天誅と称した暗殺を繰り返した人物です。

土佐で生まれ、江戸で鏡心明智流の中伝を得、ふたたび土佐で土佐勤皇党に仕えましたが、晩年は拷問された末に口を割ったことから不名誉な評判も得てしまいました。しかし、勢い失速する土佐勤王党のために、また師である武市瑞山に、最後まで忠義を尽くそうとした頑固で純粋な性格だったとも伝えられています。岡田以蔵の残した辞世の句「君がため 尽くす心は水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」の君はまさに師であり、上司でもあった武市のことを指しているのでしょう。生涯、浅学で教養に欠けていたといわれる岡田以蔵ですが、この辞世の句にはまっすぐで一途な性格と品が感じられます。

その生涯と性格がなんとも魅力ある人物、岡田以蔵の刀「肥前忠広」も、多くの人を暗殺したという事実とあいまって多くの人の注目を集めています。

目次

1.肥前忠広について
  (1)刀工、忠広について
  (2)岡田以蔵にこの刀が渡った経緯
  (3)肥前忠広の特徴
2.人斬り以蔵と言われた所以について
  (1)井上佐市郎・暗殺(文久2年8月2日)
  (2)本間精一郎・暗殺(文久2年閏8月20日)
  (3)宇郷重国・殺害(文久2年8月22日)
  (4)文吉・殺害(文久2年閏8月30日)
3.岡田以蔵と坂本龍馬の関係について
  (1)坂本龍馬とは幼なじみ
  (2)坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛に
  (3)坂本龍馬の気遣いも無に
4.岡田以蔵と勝海舟の関係について
  (1)初めは勝海舟の門下生
  (2)勝海舟の護衛時代
  (3)中浜万次郎の護衛時代
5.岡田以蔵の子孫について
6.まとめ

1.肥前忠広について

肥前忠広

肥前忠弘で検索すると、坂本龍馬の名前が挙がります。岡田以蔵の愛刀であった肥前忠広は坂本龍馬の兄・権平が以蔵に贈ったとも、龍馬から以蔵に貸したともいわれています。肥前忠広の刀工忠広について、岡田以蔵に渡った経緯、刀そのものの魅力について説明します。

(1)刀工、忠広について

初代忠広は、慶長(1596〜1615年)ごろから寛永(1624〜1644年)ごろまで作を残し、その後、幕末までに八代続きました。名工といわれるものも多く輩出した家柄です。特に秀でた刀工としては初代肥前忠広、二代目近江大掾忠広、三代目肥前忠吉(陸奥守忠吉)の名が挙がります。

初代忠広は山城国埋忠明寿(うめただみょうじゅ)を師とし、多くの作品を残しました。制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれ、「肥前国住武蔵大掾藤原忠広」「肥前国藤原忠広」などの刻銘があります。刀剣は、最上大業物(さいじょうおおわざもの)、大業物(おおわざもの)、良業物(よきわざもの)、業物(わざもの)とランク分けされますが、初代は業物の最上級ランクとされる最上大業物13刀工のひとりです。

二代目も初代と同じく傑出した刀工とされ、大業物として数えられています。二代目忠広は「近江大掾藤原忠広」「肥前国忠広」などと刻銘したと確認されています。長命であったため現存する作は多いです。

三代目肥前忠吉も初代忠広の子で最上大業物のひとりに数えられています。初代につぐ名工とされていますが、現存する作品は多くありません。

岡田以蔵の愛刀である肥前忠広は、この初代忠広の作ではないかといわれています。というのも岡田以蔵に贈った坂本権平の秘蔵の刀との話があるからです。

(2)岡田以蔵にこの刀が渡った経緯

説として二つあり、坂本龍馬の姉、乙女が兄権平に贈ったとされるものと、龍馬が土佐藩を脱藩するときに姉、栄から龍馬に贈られたというものがあります。岡田以蔵の愛刀となった肥前忠弘は本間精一郎暗殺の際に切先を破損しました。その後「遊就館」に展示されていた時期もありましたが、現在はその行方が不明です。

(3)肥前忠広の特徴

樋入り刀身と赤飛沫塗鞘、彫金貼りの鍔です。鍔には赤と茶を基調とし龍が描かれています。

2.人斬り以蔵と言われた所以について

人斬り以蔵

以蔵といえば、またの名を「人斬り以蔵」といいます。天誅と称し次々と暗殺を繰り返したことからそう呼ばれましたが、同志の間では「天誅の名人」ともいわれています。ここでは彼の関わったとされる有名な暗殺事件をいくつか紹介します。それ以外にも金閣寺侍従・多田帯刀、儒学者・池内大学など9名の暗殺に係わったとの言い伝えが残っています。

(1)井上佐市郎・暗殺(文久2年8月2日)

公武合体派であった吉田東洋が、尊皇攘夷派の土佐勤王党の志士、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺されました。この暗殺事件について取り調べていた土佐藩下目付けの井上佐市郎を暗殺したメンバーのひとりが岡田以蔵です。他のメンバーは、久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎でした。これが後に人斬り以蔵と呼ばれるほどに暗殺を重ねていく始まりとなるものです。ちなみにこの際、井上佐市郎に同行していた岩崎弥太郎(後の三菱財閥の創業者)は運よく難を逃れています。

(2)本間精一郎・暗殺(文久2年閏8月20日)

越後国出身で、特定の藩に属さなかった本間精一郎は常に疑われ敵も作りやすく、攘夷督促勅使を推進し勤王党の間で対立があったとも、幕府と通じているのではないかと疑われたともいわれました。その本間を、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の人斬りこと田中新兵衛と共に暗殺しました。

(3)宇郷重国・殺害(文久2年8月22日)

宇郷重国(うごう しげくに)は、前関白九条家の諸大夫でした。官名は玄蕃頭(げんばのかみ)で、安政の大獄の際、同じ九条家の侍臣島田左近と共に志士弾圧を行い、和宮様の降嫁推進にも関わっていました。これらによって攘夷派志士から目をつけられ危険を感じ、あちこちと居所を変えていましたが、九条家河原町御殿に潜伏中に殺されました。このときのメンバーは以蔵の他、岡本八之助、村田忠三郎及び肥後の堤松左衛門でした。

(4)文吉・殺害(文久2年閏8月30日)

文吉は、安政の大獄時に島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明しでした。また島田の高利貸しの手伝いもしており、法外な利益を得ていたとされています。こうしたことで志士たちから恨みを買っていました。このときの暗殺メンバーは以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人ですが、「斬るのは刀の穢れになる」として細い紐で絞殺されました。

3.岡田以蔵と坂本龍馬の関係について

坂本龍馬

高い身分の家柄ではなく、生活も厳しかった岡田以蔵の剣術の才を見い出し、江戸の士学館で学ばせ、鏡新明智流剣術の使い手として育てた恩人ともいえる人物は土佐勤皇党の武市瑞山です。岡田以蔵が人斬り以蔵と呼ばれるほどに暗殺した相手はすべてこの武市瑞山の意に沿わぬものばかりでした。彼の恩義に報いるために生きた岡田以蔵の一生でしたが、もうひとり大きな影響を与えた人物がいます。それが坂本龍馬です。

(1)坂本龍馬とは幼なじみ

武市瑞山と坂本家が遠い親戚であったことから、坂本龍馬とは幼い頃からの知り合いだったとも、江戸で武市が師範を務める桃井道場での修業中、千葉道場で同じく修行中だった坂本龍馬と会ったともいわれています。その後は主に京都で武市の命のもと暗殺を繰り返した岡田以蔵と、神戸や江戸で活躍していた坂本龍馬とは、後の勝海舟と件で会うことはあったものの多くの接点はなかったとされています。

(2)坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛に

武市の勤皇のためには暗殺もやむなしとする過激なやり方に異を唱えていた坂本龍馬は、武市の暗殺の道具となって働く岡田以蔵に、自らの師である勝海舟の護衛の職を紹介しました。龍馬から肥前忠広を贈ったとの説もあることから、以蔵を気にかけていた様子がうかがえます。

こうして以蔵は人を斬ることから人を護ることへと変わるチャンスを得たのです。肥後藩・河上彦斎、薩摩藩・ 中村半次郎、薩摩藩・田中新兵衛とともに幕末四大人斬りの一人に数えられた岡田以蔵ですが、これは今でいうテロリストであり、闇に暗躍する立場でもありました。その闇から以蔵を救いだし、日の当たる明るい場所へと引き上げてくれたのが坂本龍馬といえるでしょう。

(3)坂本龍馬の気遣いも無に

こうしてまっとうに生きる機会を得た岡田以蔵ですが、結局は勝海舟のもとを去りました。その後、愛刀を手放さざるを得ないほどに落ちぶれ、藩政を脅かす勤皇党の一員として捕らえられ拷問された際には、恩人である武市にも疑われ、最後には斬首され河原にその首を晒されることになります。

武市瑞山が武士として切腹の最期であったのに対し、岡田以蔵は無宿人つまり現在の戸籍台帳ともいえる宗門人別改帳から名前を外された立場での斬首でした。岡田以蔵の最期を知ったとき坂本龍馬は大泣きしたと伝えられています。

4.岡田以蔵と勝海舟の関係について

勝海舟

岡田以蔵は、坂本龍馬の口利きにより、勝海舟を護衛する職に就くことになりました。ここでは、勝海舟と岡田以蔵に関する話をいくつかご紹介します。

(1)初めは勝海舟の門下生

護衛につく以前に岡田以蔵は勝海舟の門下生でした。文久3年1月に入門しましたが、これは坂本龍馬の勧めともいわれています。

(2)勝海舟の護衛時代

同じ年の3月、門下生だった岡田以蔵は、坂本龍馬の口利きで勝海舟の護衛をすることとなります。長身ながら 「撃刺矯捷なること隼の如し」とも称された岡田以蔵のその俊敏な動きと剣さばきは突出したものだったのでしょう。以下、勝海舟の語録を集めた「氷川清話」よりの抜粋です。

「仕方なしに其夜は市中を歩いていたら、丁度寺町通りで三人の壮士がいきなり前へあらわれて、ものもいわず切り付けた。驚いて後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵が、いそぎ長刀をひき抜いて一人の壮士を真っ二つに斬った。弱虫どもが何をするかと一喝したので、後の二人は勢いに辟易して何処ともなく逃げていった。おれもやっとの事で虎口を遁れたが、岡田の早業には感心したよ。後日おれは岡田に向って『君は人を殺すことをたのしんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう』と忠告したら、『先生それでもあの時、私が居なかったら先生の首は既に飛んでしまって居ます』といったが、これにはおれも一言もなかった」

なお、この事件があった後、勝海舟は以蔵にフランス製のリボルバーを贈りました。

(3)中浜万次郎の護衛時代

中浜万次郎は、ジョン万次郎として知られ、江戸時代末期から明治にかけて活躍した人物です。通訳・教師を職業とし、日米和親条約の締結に尽力しました。その万次郎を護衛したという話が中浜家の家伝、『中浜万次郎-「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』で伝えられています。そのとき岡田以蔵を中浜万次郎に推薦したのが勝海舟だったといわれています。

5.岡田以蔵の子孫について

岡田以蔵は28歳という若さで死去したこと、結婚せず生涯独身だったことで、直系の子孫はいないようです。2006年に坂本龍馬記念館で岡田以蔵所有のリボルバーが公開されましたが、これは以蔵の弟の子孫にあたる方から提供されたものだとのことです。

岡田以蔵の墓は今も献花が絶えないほどファンも多い人物ですが、時代が時代とはいえ人斬りは殺人です。また斬首の上さらし首という最期でしたから公にはしにくい状況も察せられます。

6.まとめ

NHK大河「龍馬伝」で佐藤健が好演し「以蔵ブーム」が起きる以前にも、岡田以蔵は数々の映画に登場していました。1961年には「鞍馬八天狗」で若山富三郎が、1969年には「人斬り」で勝新太郎が演じています。また出版界司馬遼太郎著「人斬り以蔵」が出され、演劇界でも何度も上演されています。若者に人気の漫画「るろうに剣心」の鵜堂刃衛のモデルとしても有名です。いったい何がそんなに人々をひきつけるのでしょう。

生まれついた境遇が厳しくつらいものであったこと、剣の腕ひとつで時代の中心人物に取り立てられるものの免許皆伝を得ることができないほど教養不足であったこと、晩年は落ちぶれて商売道具であった愛刀さえも手放し脇差しか持っていず、28歳という短い生涯を斬首で終えたこと。そんな彼の一生を支え続けたのは武市瑞山への恩義でした。数々の暗殺は彼の命に従ってのものでした。それなのに死没した土佐勤皇党の名簿に名前はありません。捕らえられた際も、武市瑞山に毒を盛られかけるなどの不遇ぶりです。

こういった愚直ともいえる純粋さは、岡田以蔵が辞世の句「君がため 尽くす心は水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」に表れています。この一句があまりに美しく哀しすぎ、多くの人々をひきつけて止まないのでしょうか。

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