新撰組・斉藤一の愛刀「鬼神丸国重」とは?
1869(明治2)年、榎本武揚による無条件降伏によって戊辰戦争が終結し、明治政府主導のもと、欧米の風を取り入れた新たな日本が幕を開けることになりました。
その激動の時代を戦い続けた新撰組。
京都以来の隊士の中で戦後生き残った者はごくわずかでしたが、その中には、甲州勝沼の戦いで近藤と袂を分かった永倉新八、函館まで土方と行動を共にした島田魁、そして会津戦争の後、仙台に転戦する旧幕府軍や土方と別れて会津に留まった斎藤一がいました。
『新選組顛末記』や『浪士文久報告記事』など新選組にまつわる記録を多く残した永倉や、生涯同士を弔う生活を送ったと伝えられる島田に対し、齊藤は新撰組についてほとんど口にすることなくこの世を去りました。しかし彼は新撰組一の剣の腕前を持ち、警視局で剣道師範を務めたり、西南戦争にも参加するなど、刀の時代が終わってもなお、刀と共にありました。その彼が手にしていた刀とは、一体どのようなものだったのでしょうか。そして斎藤一とは一体、どのような人物だったのでしょうか。
目次
1.鬼神丸国重について (1)概要 (2)刀にまつわるエピソード (3)展示場所 (4)斎藤一のもう一つの愛刀?「関孫六」 2.斎藤一の生涯について 3.斎藤一の新撰組での活躍について (1)組内一、二を争う剣の腕前 (2)「スパイ」としての斎藤一 (3)会津にて忠義を尽くす 4.戊辰戦争後の活躍と晩年の暮らし (1)斎藤一の子孫について (2)斎藤一の警官としての活躍 (3)斎藤一の晩年について 5.まとめ1.鬼神丸国重について
(1)鬼神丸国重の概要
京都・壬生の刀研師、源龍斎俊永が遺した「会津守護職様御預新撰組一等様刀改控」の記録の中には、「元治元年六月七日」の日付とともに、32名の隊士たちの刀の銘や状態が記されています。その二日前に起きた有名な出来事こそ池田屋事件。隊士たちは損傷した刀のメンテナンスのため俊永に刀を預けており、これはそのときの記録ではないかと推測されています。
斎藤一の刀については以下のように記されています。
「摂州住池田鬼神丸国重 二尺三寸一分 刃毀レ小サク無数」
摂州住とは現在の大阪府池田市にあたる地域。
江戸時代の刀匠・池田鬼神丸不動国重による業物で、メモによるとこの刀は1682(天和二)年に作刀されたもの。斎藤がどのような経緯でこの刀を手に入れたのかは不明ですが、池田屋事件の際に活躍し、新撰組の名挙げに一役買っていたのかもしれません。
(2)鬼神丸国重まつわるエピソード
ところで、俊永のメモは多くの歴史小説に影響を与えた『新撰組始末記』や『新撰組異聞』などでお馴染みの作家・子母澤寛(しもざわ かん)が、新撰組に関連する資料を収集していたときに発見したと言われています。そのためメモそのものの信憑性を問う声も多く、斎藤の愛刀は鬼神丸国重ではなかったとする説もあります。
実際、近藤勇が池田屋事件の前年に郷里の佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に興味深い記述があります。
「剣は大坂者は決して御用いなさるまじく候」
つまり、大坂の刀工による刀は用いるな、ということです。
これはある事件の際に新撰組のブレーン・山南敬助の刀である赤心沖光が折れてしまったこと、それが大坂の刀工によって作られた刀であったことが原因の一つと考えられています。
大坂で作られる刀は実用性よりも装飾性を大事にする傾向にあり、刃の焼きが強く折れやすいとされてきました。実戦が想定される池田屋事件で使用されるとは考えにくく、これが、斎藤の刀は鬼神丸国重ではなかったという説の根拠の一つとして語られています。
(3)鬼神丸国重の展示場所
鬼神丸国重は現存していないため、斎藤の愛刀かどうかということを含め確かめる術は残念ながらありません。しかし同じ刀匠による刀は、岡山県にある「倉敷刀剣美術館」と、函館市にある「土方歳三函館記念館」で見ることができます。
■倉敷刀剣美術館
国内屈指の刀剣ミュージアム。平安時代から明治時代にいたるまで制作された刀を数多く展示しています。時代や地域によって異なる刀の魅力を、間近に体感してみてはいかが。
- 所在地 岡山県倉敷市茶屋町173
- TEL 086-420-0066
- 営業時間/10:00〜19:00(入館は18:30まで)
- 料金/1,000円
- URL http://www.touken-sato.com/
土方歳三の生涯を、貴重な資料とともに紹介。近藤勇の愛刀・長曽祢虎徹と同作の刀や、斎藤一の長刀と同じ刀工による脇差なども展示されています。幕末ファン必見。
(4)斎藤一のもう一つの愛刀?「関孫六」
斎藤の佩刀について気になる記録がもう一つあります。その名も「新撰組十勇士伝」。明治時代中期に人気を博した講談師・松林伯知(しょうりんはくち)が、永倉新八などからの取材をもとに編んだ一席で、1868年12月に起きた天満屋事件を題材としています。
「斎藤肇においては、関孫六の一刀を引き抜き、エイとばかりに(中略)斬って落とした」
ここに記された「関孫六」とは、刃物の町として有名な岐阜県関市で造られたもの。4種類の異なる鉄を組み合わせて鍛える「四方詰め」の技術により、折れにくく頑丈な刀だったとされています。実用性に富んだ名品を、新撰組最強の剣士の一人である斎藤も実戦刀として愛用していたのかもしれません。
2.斎藤一の生涯について
斎藤一は新撰組メンバーの中でも特に記録が少なく、その生涯は多くの謎に包まれています。断片的な記録の中から略年表を再構築すると、おおよそ以下のようになります。
年号 | できごと |
---|---|
1844年 天保15年/弘化元年 | 元足軽の御家人・山口祐助の次男として誕生。初名は山口一。 |
1862年 文久2年 | 江戸を出奔し、京都へ。斎藤一に改名。 |
1863年 文久3年 | 壬生浪士組に参加。 |
1864年 文久4年/元治元年 | 池田屋事件発生。 |
会津藩公用方に「近藤勇の非行五カ条」を提出。 | |
1865年 元治2年/慶応元年 | 隊士募集のため、伊藤甲子太郎らと江戸へ。 |
1867年 慶応3年 | 新撰組から分離した伊藤の御陵衛士(ごりょうえじ)に参加。 |
後に新撰組に復帰。山口二郎に改名。 | |
1868年 慶応4年/明治元年 | 天満屋事件発生。 |
鳥羽伏見の戦い発生。 | |
会津戦争で新撰組の隊長を務める。 | |
会津藩降伏に伴い謹慎生活。一瀬伝八に改名。 | |
1872年 明治5年 | 藤田五郎に改名。 |
1874年 明治7年 | 東京に移住。 |
会津藩士の娘と結婚。 | |
1877年 明治10年 | 警視局警部補に就任。 |
西南戦争に従軍。 | |
1915年 大正4年 | 自宅で病死。享年72歳。 |
3.斎藤一の新撰組での活躍について
(1)組内一、二を争う剣の腕前
新撰組から分離した御陵衛士に参加した阿部十郎は、斎藤一、永倉新八、沖田総司3人の剣の実力について「沖田の次が斎藤で、永倉が沖田をわずかに上回っている」と語ったとされています。そして阿部に最強と言わしめた永倉は、斎藤と沖田をともに「達人」と評しています。3人は隊士たちに剣術を教える撃剣師範にも名前を連ねており、その剣の実力のほどが伺えます。
記録が少ないながらも剣の腕前は確かだった斎藤。それを示すもう一つのエピソードが、壬生浪士結成直後にあります。それが京都守護職・松平容保に披露するための齊藤と永倉による剣術試合。
壬生浪士の存在価値を示す最大のチャンスでもあり、下手な試合を見せるわけにはいかない状況の中、人選や対戦相手は十分に検討されたことでしょう。斎藤の腕前が永倉に引けを取らないものであったことや、2人に稽古相手としての十分な経験あり、それが試合のその瞬間まで続いていたことでの暗示ではないかと考えられています。
(2)「スパイ」としての斎藤一
壬生浪士組で副長助勤に、新撰組では三番隊隊長に抜擢された斎藤は、剣の腕以外には謎が多い人物。「スパイ」や「暗殺者」というイメージもありますが、その直接の要因となったのは1867年に伊藤甲子太郎らが御陵衛士を拝命し、新撰組から分離したときのことでした。
池田屋事件以来、新撰組は長州藩に対する圧力を強めていました。しかし孝明天皇の崩御を受けて長州戦争が事実上休戦となり、松平容保や近藤勇はこれに異を唱えるようになります。
伊藤はそうした近藤らと袂を分かつことを決意し、御陵衛士を誕生させたのです。「永倉か斎藤を拝借したい」という伊藤の申し入れに、近藤が差し向けたのは斎藤でした。
その後伊藤による近藤の暗殺計画を察した斎藤は、屯所である月真院を抜け出してその旨を近藤に報告します。
この頃、幕府による長州処分の軟化に逆行するような近藤の指針に、隊士たちも疑問を抱き始めていたと言われています。御陵衛士はそうした者たちと考えを同じにしていたため、近藤ら幹部は隊の瓦解を懸念するようになりました。そこで御陵衛士の壊滅に乗り出すこととなります。
御陵衛士を抜け出した斎藤は存在を悟られないよう「山口二郎」に改名し、近藤の指示で紀州藩士・三浦休太郎の元に身を隠します。帰隊は油小路の変で伊藤ら御陵衛士を粛清した後のこと。危険を冒して貴重な情報を持ち帰り、諜報活動を成功させたことが、斎藤一の「スパイ」としてのイメージを確固たるものにしました。
(3)会津にて忠義を尽くす
1868年、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まります。新政府軍が導入した近代兵器の脅威を目の当たりにした新撰組は、多くの犠牲を出しながら江戸に敗走。その後甲府城を接収するために甲陽鎮撫隊として出陣し、甲州勝沼の戦いで再度新政府軍と戦います。
いずれの戦いにも参戦していた斎藤ですが、甲州で敗れた後は負傷した隊士たちを引き連れ会津に向かいます。
この間に近藤は投降し、処刑。近藤の助命嘆願のために江戸に出ていた土方は伝習隊を率いる大鳥圭介らと合流しともに北上しますが、宇都宮の戦いで負傷。亡き近藤、怪我の土方の代わりに斎藤が新撰組を率いることになります。
母成峠の戦いに敗れた会津軍は籠城戦に突入しますが、城下に新政府軍の侵入を許すと形成の挽回は困難を極めました。そこで旧幕府軍は仙台に逃れることを決定。このときの軍議で斎藤が語った言葉が残されています。
「今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」(『谷口四郎兵衛日記』より)
斎藤はこの後、仙台へと向かう新撰組本隊から離れ、12人の隊士とともに会津に残り、新政府軍に応戦します。しかしほどなくして会津藩が降伏。斎藤は「一瀬伝八」の名前でこれに従い、越後の高田藩で謹慎生活を送ることになりました。
4.戊辰戦争後の活躍と晩年の暮らし
(1)斎藤一の子孫について
1868年、会津藩は陸奥斗南(現在の青森県)の地を与えられて移住を始めます。しかしそれ以前に斎藤は高田を脱走していたため、斗南の五戸に戻るのは1870年頃となりました。ここで斎藤は元会津藩士・篠田内蔵の娘であるやそと結婚したと伝えられています。
しかし1874年には東京に移住して元会津藩士である高木小十郎の長女時尾と再婚。時尾との間に三人の子供をもうけました。
これまで斎藤一の肖像画として知られていたものは彼の長男・藤田勉をもとに描かれたもの。しかし2016年、斎藤が53歳のときに撮影された写真が横須賀にある子孫の家で発見・公開されました。壮年ながら凛々しく精悍な顔立ちに、多くの死線を潜り抜けてきた剣士の素顔が垣間見えます。
(2)斎藤一の警官としての活躍
上京した斎藤は警視庁に採用され、1877年、警視局の警部補に昇任。西郷隆盛を中心に九州で発生した西南戦争にも別働第三旅団豊後口警視徴募隊(警視隊)として出征します。
本来は陸軍の後方支援を主な役割としていましたが、戦闘にも参加しその都度戦力を補っていたといいます。支給された武器は先込め式の銃一丁。そのため刀を手に戦った者も多いといいます。もしかしたら斎藤も、新撰組での経験を活かし、刀を振るったのかもしれません。
斎藤はこの戦いで負傷しつつ、大砲2門を奪取するなど奮戦しました。その活躍が認められ1879年には勲七等青色桐葉章を授与。1881年に警視局は一時廃止されますが、1892年に退職するまで警察職を歴任しました。
(3)斎藤一の晩年について
警視庁を退職した後は、元会津藩士だった高嶺秀夫東京高等師範学校校長の推挙で同校付属教育博物館(現在の国立科学博物館)の看守に就任。さらに同校の撃剣師範を務め、学生に撃剣を教えていたといいます。
1899年には東京女子高等師範学校の職員として1910年まで在職していました。また子供たちにも剣術や武士の心得を教えていたと考えられています。
5.まとめ
新撰組隊士の中でも特に記録が少なく、また山口二郎や藤田五郎など幾度となく名前を変えながら、新撰組時代のことを語り継ぐことなく72年の生涯に幕を閉じた斎藤一。
彼にとって新撰組がどのようなものであったのかは想像の域を出ませんが、沖田や永倉にも引けを取らない剣の腕前は確かなものでした。
その手には鬼神丸国重をはじめとする業物が握られていたことでしょう。戊辰戦争を経て刀の時代が終わりを迎えてもなお、治安を守る警察としての職務を全うしました。
西南戦争に参加した後も警察職を歴任し、退職後は東京高等師範学校などで事務方を務めながら、市井で穏やかな人生を送ります。それはもしかしたら、戦地に散った盟友たちの分も生き抜こうとする、彼なりの弔いだったのではないでしょうか。
ところで、胃潰瘍のため1915年にこの世を去った斎藤の臨終に際して興味深い逸話が残されています。それは、己の死期を察した齊藤が床の間で座布団に端座したまま静かに瞠目し、結跏趺坐(けっかふざ)のまま息を引き取ったというもの。往年の剣客としての矜持を感じさせます。
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