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新撰組局長・近藤勇が愛刀「虎徹」と歩んだ生涯とは?

近藤勇

幕末に誕生した、精鋭揃いの剣客集団「新撰組」。京都の治安を守るために、会津藩のお預かりとなった壬生浪士組改め、「新選組」を率いたのが局長・近藤勇です。

将軍家直属の天領地であった、武蔵国多摩の農家の三男として世に誕生した近藤勇は、百姓の家筋から武士になった人物です。15歳のときに、江戸の天然理心流剣術道場「試衛館」の門を叩いて以降、彼の「もののふ」としての人生が開けていくことになります。

「真剣を持たせたら敵なし」と周りに言わしめた近藤勇は、実戦向きの武士でした。実際、天然理心流宗家を継ぐ腕前だった近藤は、暇さえあれば刀剣の話しをするほどの刀剣好きで知られています。

本記事では、激動の幕末を駆け抜けた近藤勇と運命を共にした愛刀と、彼の生涯についてご紹介します。

目次

1.長曽祢虎徹について
  (1)長曽祢虎徹の概要について
  (2)刀にまつわるエピソード
  (3)長曽祢虎徹の展示場所について
2.近藤勇の生涯について
3.近藤勇の新撰組での活躍について
  (1)壬生浪士組から新撰組へ
  (2)200名を超える剣客集団をまとめるトップに
  (3)近藤勇は新撰組のトップにふさわしかった?
4.近藤勇の処刑について
  (1)近藤勇の最期
  (2)武士としての尊厳をはく奪された近藤勇の処刑方法
  (3)なぜ晒し首にされなければいけなかったのか
5.近藤勇のお墓について
  (1)永倉新八が建てた近藤勇の墓
  (2)近藤勇の墓が各地に存在している理由は?
6.近藤勇の子孫について
  (1)近藤勇の子どもたち
  (2)近藤勇の子孫・近藤久太郎
7.まとめ


1.長曽祢虎徹について

虎徹

近藤勇が残した名言として、「俺は武士よりも武士らしい武士になる」という言葉があります。そんな彼のもののふ魂を象徴するものといえば、名刀「長曽祢虎徹」でしょう。竹刀剣術ではそれほど凄腕という訳ではなかった近藤勇ですが、真剣による実戦ではめっぽう強かったとされています。刀剣好きの近藤勇が愛した、長曽祢虎徹とはどのような刀なのでしょうか?

(1)長曽祢虎徹の概要について

長曽祢虎徹は、江戸で長曽祢鍛冶集団に加わった名刀工・長曽祢興里による作品です。すっかり戦とは無縁になってしまった江戸時代ですが、長曽祢興里は切れ味抜群の刀作りを20年に渡って行いました。

見る者に緊張感を与えるほどの存在感を放つ長曽祢虎徹は、江戸時代の新刀期の刀でありながらも、古刀のように鉄が柔らかいという特徴があります。

また、江戸時代の流行りを反映して反りが浅く、刀身本体を構成している地鉄(じがね)は、鍛えが強く冴えわたっています。地鉄の模様のことを鍛え肌と言いますが、長曽祢虎徹は、木の年輪のような筋が丸みを帯びているように見える杢目肌(もくめはだ)が特徴的です。

鉄が明るく冴えた刀が多いため、鑑賞用としても素晴らしい刀ですが、実用向きの刀作だと言えます。短刀は少なく、主に大刀や脇差が作られました。

江戸時代には、山田一門が担った日本刀の試し斬りを行う専門役職があり、刀の切れ味の序列を決めていました。切れ味ごとに4段階に分けられていましたが、当然のことながら長曽祢虎徹は「最上大業物」という、もっとも素晴らしい切れ味の刀剣として認められていました。近藤勇の愛した刀である長曽祢虎徹は、現在のところ行方不明です。新選組局長と同じ長曽祢虎徹が欲しいと思う方は、日本刀を商う専門店に尋ねてみることができるでしょう。

(2)刀にまつわるエピソード

新撰組を一躍有名にした出来事といえば、京都で起こった「池田屋事件」でしょう。池田屋事件とは、幕府側の治安部隊である新撰組が、京都にある旅館・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを襲撃した事件です。

当初、江戸幕府の転覆を謀る20数名の志士たちが集まる池田屋に、新撰組側はたった4人で攻め込みました。激しい戦いの最中、結核により吐血した沖田総司と傷を負った藤堂平助は戦線離脱し、援軍が駆け付けるまでの間、永倉新八と近藤勇が尊王攘夷派の志士たちを相手に死闘を繰り広げます。

その戦いで、永倉新八は左手の親指を負傷します。しかしながら、新撰組局長の近藤勇は無傷だったといいますから、やはり実戦で実力を発揮できる人物だったのでしょう。永倉新八の刀は激闘に末に折れてしまいますが、近藤勇の長曽祢虎徹は、持ち主同様に無傷でした。池田屋事件の後、郷里の養父に宛てた手紙の中で、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と書き送り、他の隊員の刀はボロボロになったが、自分の刀は長曽祢虎徹だったので命が助かったということを述べています。

実は、近藤勇の愛刀は「無銘」だったため、長曽祢虎徹ではなかったという説もあります。偽物か本物か諸説ある近藤勇の愛刀ですが、はたして無類の刀剣好きだった彼が見誤ることがあるのだろうか、と考えずにはいられません。いずれにしても、近藤勇の愛刀は素晴らしい刀であったことには間違いないでしょう。

(3)長曽祢虎徹の展示場所について

本物の長曽祢虎徹を一度この目で見てみたいと思うなら、岩国美術館を訪れてみてはいかがでしょうか。山口県岩国市にある岩国美術館では、寛文12年から13年の作とされる長曽祢虎徹が常設展示されています。

2.近藤勇の生涯について

近藤勇の銅像

享年35歳(満33歳)でこの世を去った近藤勇の生涯は、太く短いものでした。確固としたリーダーシップを発揮し、個性豊かな面々で構成されている新撰組をまとめ上げたその力量は、現在でも多くの人々を魅了しています。近藤勇の生涯を簡単な年表でおさらいしてみましょう。

<近藤勇の年表>

年号 出来事
1834年(天保5年) 武蔵国多摩郡上石原村に住む百姓、宮川久次郎の三男として生まれる。
1849年(嘉永2年) 江戸にある天然理心流剣術道場「試衛館」に入門。
1860年(安政7年) 松井つねと結婚。
1863年(分久3年) 京都で壬生浪士組を結成。
1864年(元治元年) 池田屋事件が発生。
1867年(慶応3年) 王政復古の大号令。京都で襲撃に遭い、銃弾を受ける。
1868年(慶応4年) 新政府軍に包囲されて投降するも、斬首される。享年35歳

3.近藤勇の新撰組での活躍について

近藤勇・新撰組

14代将軍・徳川家茂の上洛警護をするために、「浪士組」として京都に向かった近藤勇。彼は百姓一家の家に生まれ、小さな頃から「三国志」や「水滸伝」の話しを聞いて育ちました。

後に、英雄的な活躍をすることにより、将軍に謁見することが可能な旗本という身分にまで登り詰めます。武士に憧れた近藤勇が立身出世するきっかけになったのが、「新撰組」の局長としての活躍です。いったいどんな活躍を繰り広げたのでしょうか?

(1)壬生浪士組から新撰組へ

将軍警護のために京都に集まった「浪士組」ですが、実際には攘夷行動を建白するために集められた集団でした。浪士組は江戸に戻るように促されますが、尊王攘夷に反対だった近藤勇らはそのまま京都に腰を下ろし、京都の治安維持部隊として活躍することを誓います。

壬生浪士組として会津藩預かりになった近藤たちですが、長州藩の残党狩りなどの働きぶりが認められ、新たに「新撰組」という隊名を授けられます。

(2)200名を超える剣客集団をまとめるトップに

「壬生浪士組」が結成された頃はわずか20名程度でしたが、「新撰組」として活躍しだしてからは200名もの隊員を抱える剣客集団へと成長しました。尊王攘夷派志士たちの謀反の計画を事前に阻止し、池田屋事件では「新撰組」の名前を世間に広く知らしめます。

会津藩預かりの治安維持部隊から幕臣と化した「新選組」でしたが、近藤勇は新撰組のトップとして政治に介入するようになります。厳しい隊律を定め、自分と志を異にする人たちを除き去ることにも意を介さなかった近藤勇は、新撰組においてリーダーシップを遺憾なく発揮しました。

(3)近藤勇は新撰組のトップにふさわしかった?

そもそも「浪士組」として京都に赴くことになったとき、天然理心流剣術道場「試衛館」から8名が参加しています。その中には、土方歳三や沖田総司らが含まれていましたが、その当時から近藤勇は彼らの中で中心的な存在でした。

天然理心流宗家4代目としての立場も然ることながら、近藤勇の人柄が彼をリーダーたらしめていたのでしょう。総合的な才能としては土方歳三のほうが優れていたとされていますが、それでも土方歳三は「新撰組」の中であえて第二の立場に甘んじます。

横暴でわがままだったと評されることもある近藤勇ですが、血の気の多い隊員を率いるために厳しくなるのは、仕方のないことだったのかもしれません。いずれにせよ、近藤勇ほど「新撰組」のトップにふさわしい人物はいなかったと言えるでしょう。

4.近藤勇の処刑について

しがない武士の立場から、幕臣に取り上げられるほど活躍した「新撰組」の栄華にも、陰りが見られるようになります。

もはや攘夷運動の勢いを止めることはできないものの、最後まで将軍家のために尽くそうと奮闘した近藤勇ら「新撰組」の面々ですが、新政府軍に追い詰められて壊滅します。

後がないと悟った近藤勇は自ら新政府軍に投降しますが、近藤の処遇をめぐって土佐藩と薩摩藩の間で対立が生じました。結局、「新撰組」に恨みを抱いていた土佐藩側が意向を通し、近藤勇は処刑されることになります。

(1)近藤勇の最期

新政府軍に身柄を拘束された近藤勇をめぐって、土佐藩と薩摩藩はおよそ3週間に渡って対立します。坂本龍馬を崇めていた土佐藩の谷干城は、近藤勇率いる「新撰組」が坂本竜馬を暗殺したとして責め立て、近藤勇の処刑を求めます。

実際には、坂本龍馬の暗殺に「新撰組」が絡んでいたのかどうかはわかっていませんが、京都で多くの尊王攘夷派志士たちの命を奪ったことは事実です。

そうして、板橋刑場で斬首された後、首だけが京都に送られて京都の三条河原で晒し首にされました。

(2)武士としての尊厳をはく奪された近藤勇の処刑方法

武士よりも武士らしい武士になることにこだわった近藤勇でしたが、その最期は武士としての尊厳をはく奪されたものでした。武士として死ぬことが許されなかった近藤勇は、斬首という武士にとっては屈辱的な処刑方法で死ぬことを余儀なくされます。

しかしながら、近藤勇は最期まで武士らしく振る舞い、処刑前に彼の警護にあたった人物たちに対して、「ながなが御厄介に相成った」との言葉をかけたとされています。

近藤勇の処刑に対して、その後、新政府に反対の声や批判の声が上がったようですが、近藤が忠義を尽くした旧幕府の徳川側の反応は薄いものだったようです。

(3)なぜ晒し首にされなければいけなかったのか

薩摩藩側は、近藤勇の命を奪う必要はないとの意向を示していました。結局、土佐藩の私怨により処刑されることになりますが、「幕臣を騙る浮浪者」として斬首されます。

その処遇には、新政府側の人間たちの間からでさえも同情の声が上がりました。しかし、カリスマ性を備えた武士だっただけに、彼の支持者が新政府に立てつかないようにするためにも、徹底的に彼のカリスマ性を否定しなければならなかったのでしょう。

近藤勇の首は、板橋から京都に送られて晒し首にされてしまいました。

5.近藤勇のお墓について

近藤勇の墓

歴史が大きく変わった幕末という激動の時代にあり、忠義を貫きながら駆け抜けた近藤勇。享年35歳(満33歳)というごく短い人生ですが、彼の人生は短くも濃いものだったと言えるでしょう。

古今無双の人傑と称えられた近藤勇の墓とされるものが現在国内各地にみられますが、「新撰組」として共に活躍した永倉新八によって建てられた墓が、現在の東京・板橋にあります。

(1)永倉新八が建てた近藤勇の墓

近藤勇の遺体は、斬首後に板橋刑場付近に埋められました。その後、近藤勇の実兄・宮川音五郎と、近藤勇の甥で婿養子となった近藤勇五郎により奪還され、菩提寺であった龍源寺に首のない遺体のみ埋葬されたと言われています。

一方、同士であった永倉新八が近藤勇の遺体を寿徳寺の境外墓地に埋葬したという説もあり、実際に昭和3年の墓石の改修工事の際には、首のない右肩に穴の開いた(京都で銃弾を受けた傷跡がある)遺体が発見されました。

近藤勇の家族らが間違った遺体を埋葬したのか、彼らが近藤勇の遺体を掘り返すためにお金を握らせた人物が彼らを謀ったのかは定かではありません。

謎が多い近藤勇の遺体の行方ですが、一般的には、永倉新八が「新撰組」の供養塔として建てた墓に、近藤勇は眠っているという説が濃厚だと考えられています。

(2)近藤勇の墓が各地に存在している理由は?

近藤勇の墓は、各地に存在します。斬首されて晒し首にされた近藤勇ですが、彼の首は現在でもその行方はわかっていません。

一説には、東本願寺の住職が埋葬したとか、同士の斎藤一が近藤の首を持ち去って宝蔵寺の住職に供養を頼んだが、住職の移動に伴い法蔵寺に埋葬されることになったなどの説がります。

こうした背景もあり、近藤勇の墓は国内各地に存在しているのでしょう。

6.近藤勇の子孫について

近藤勇は見合い結婚により、当時24歳だった松井つねと結婚しています。

その後すぐに「浪士組」として京都に赴くことになった近藤は、つねと夫婦としてゆっくり過ごすこともままならない身分になります。新撰組局長として活躍した近藤とつねが会ったのは、数えることができるほど少ない機会に限られました。

近藤亡き後でも再婚を拒み続けたつねですが、近藤との間に女の子を授かりました。新撰組局長として恐れられた近藤勇の子孫とは、どのような人々なのでしょうか?

(1)近藤勇の子どもたち

近藤勇には、本妻のほかにも何人か妾がいました。そのほとんどが京都の芸妓や遊女たちでしたが、彼女たちとの間に3人の子どもをもうけています。

一方、本妻のつねとの間にもうけたのは娘のたま一人でしたから、近藤勇の子どもは4人いたことになるでしょう。たまは近藤勇の甥、近藤勇五郎と結婚しますが、早くに亡くなってしまいます。勇五郎とたまの間には、近藤勇の孫にあたる久太郎という子どもがいましたが日露戦争で戦死し、直系の子孫は絶えてしまいます。

その他の子どもたちは、仏門に入ったり芸妓になったりしました。中でも、芸妓になった近藤勇の妾の子・お勇は、伊藤博文や井上肇といった明治政府の官僚たちから厚く贔屓されていました。後にお勇は、貿易商と結婚して3人の子どもをもうけたとされています。

(2)近藤勇の子孫・近藤久太郎

近藤勇の孫であった近藤久太郎は、明治16年に誕生します。4歳のときに母・たまを亡くし、その後は父・近藤勇五郎と継母のもとで成長しました。日露戦争に出征した久太郎は、中国で戦病死します。23歳の若さでこの世を去った久太郎に妻子はなく、近藤勇の直系の子孫は途絶えることになってしまいました。

7.まとめ

壬生の狼として、尊王攘夷派の志士や京都の人々からも恐れられた新撰組局長・近藤勇。実直で努力家、そしてリーダーシップに長けた彼の生涯は、時代の波に翻弄されたものでした。

短く太い人生を忠義の心でまっとうした近藤勇を支えた人々はたくさんいますが、それらの人々もすべてこの世を去りました。

近藤勇の雄姿を現在に伝えるものは、近藤と共に戦ってきた盟友ともいえる愛刀「長曽祢虎徹」のみだと言えるのかもしれません。

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