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【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説

武田信玄と上杉謙信

疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し――。

古代中国の兵法家・孫子の言葉を原点に、通称「風林火山」として知られるこのフレーズは甲斐の戦国大名・武田信玄の旗印として有名です。

信玄に関する物語は、井上靖の小説『風林火山』(1955)をはじめこれまで数多く語られてきました。何度も映画やドラマで再現されてきたので、見たことがあるという方も多いでしょう。

その中でも特に有名なのが、越後の戦国大名・上杉謙信と熾烈な戦いを繰り広げた「川中島の戦い」です。現代の歴史ファンを魅了してやまない両雄の戦いやその後の関係は、一体どのようなものだったのでしょうか。

川中島の戦いについて

川中島の戦い

川中島の戦いとは?

長野県長野市にある「八幡原史跡公園」には、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを模した銅像が建てられています。この土地は、1561年に二人が実際に対峙し、激しい戦いを繰り広げた場所。4度目の合戦のことで、これを含め1553年から1564年までの間に計5回の衝突があったと言われています。

なぜ川中島の戦いに発展したのか?

まず、どのような流れで開戦に至ったのかを見てみましょう。

当時は、第13代将軍足利義輝が三好長慶との戦いで敗れて亡命するなど、幕府の権威が完全に失墜していた時代でした。各地では地方権力が台頭し始め、東日本では駿河の今川や相模の北条など名だたる武将が有力な守護大名としての地位を築き上げていました。

甲斐を治める武田もそんな大名のうちのひとつ。信玄は領土拡大を目指し、西の信濃へと侵攻を始めます。信濃には既に村上義清や高梨政頼といった豪族が力を伸ばしていましたが、信玄はこれを次々討ち倒し、領土を拡げていきます。そこで立ちはだかったのが、越後の虎の異名を持つ長尾景虎、後の上杉謙信でした。

第一次合戦〜第三次合戦

信濃の大部分を制圧した信玄は、残りの北信濃一帯の獲得を目指して1553年に侵攻します。一方、村上氏や高梨氏の救援要請を受けた謙信は、このまま自国に被害が及ぶことを懸念して反撃を開始。千曲川と犀川に挟まれた地帯「川中島」にて信玄と対峙し、見事武田軍を討ち破ります(第一次合戦)。

信玄はこの戦いのあと、越後との戦いを想定して今川・北条と手を組み、三国同盟を結びます。さらに越後に程近い山城・旭山城を占領し、当時この地方で力を持っていた善光寺の僧侶・栗田鶴寿を味方に付け、1555年に再度侵攻(第二次合戦)。謙信は川中島よりも越後側にある旭山城からの攻撃を警戒して川を渡ることができず、なかなか身動きが取れなかったと言います。最終的には駿河の今川義元が仲介に入り、停戦協定を締結。信玄は獲得した信州の領土を手放します。

1557年、協定を反故にした信玄は、みたび信州に攻め入り次々領土を獲得していきます。攻め入られれば即座に撤退する「啄木鳥戦法」で相手軍を翻弄し、謙信との全面衝突を避けながら領土拡大を成功させていく信玄。謙信は敵国の領土まで深追いするわけにもいかず、退却を余儀なくされます(第三次合戦)。

「敵に対して勝ち過ごしてはならない。負けなければよいのである」。

『甲陽軍鑑』にも記されているこの信玄の現実主義的な姿勢が、彼の戦い方の真骨頂だったのかもしれません。

第四次合戦〜第五次合戦

第三次合戦からしばらく、15代将軍足利義昭と面会した謙信は、1561年に山内上杉家の家督と関東を統治する関東管領職を相続します。これをきっかけに関東平定を目指すようになり、北条氏が治める関東平野の攻略に乗り出します。

一方、1560年の桶狭間の戦いで信玄の同盟相手だった今川義元が戦死し、駿河領内は混乱に陥っていました。謙信によって小田原城に追い詰められていた北条氏がこのまま倒されてしまえば、甲斐は上杉家の領土に囲まれてしまうことになります。

この状況を打破するため、信玄は川中島南部に築いた海津城に本陣を置き、謙信の本拠地・越後を目指して侵攻を開始します(第四次合戦)。海津城から約2km離れたところにある妻女山に布陣した謙信に対し、信玄は自ら率いる本隊と別働隊で上杉軍を挟み撃ちにする作戦を実行するため、別働隊約12,000人を妻女山に向かわせます。

しかし謙信はその作戦を見抜いていました。

別働隊が動くよりも前に自軍約13,000人を下山させ、謙信は侵攻を開始します。

八幡原にて謙信と対峙した信玄は驚愕したことでしょう。動揺した武田軍は劣勢を強いられることになります。別働隊の到着でなんとか持ち直し、上杉軍を退けることに成功しますが、その被害は甚大なものでした。

その後、信玄は陸奥の蘆名盛氏と手を組み、蘆名軍が越後に攻め入っている隙に飛騨の制圧に向かいます。謙信は蘆名氏を倒し、武田軍を討つために再度川中島に侵攻。ここで信玄と対峙します(第五次合戦)。しかしこの戦いで二人が衝突することはありませんでした。

川中島の戦いの決着とは?

さて、武田・上杉両軍とも一進一退の攻防が続いた川中島の戦いについて、二人のこんな言葉が遺されています。

 

信玄「上杉敗れたり! 川中島はわが手中にあり」

 

謙信「ご苦労のおかげで凶徒(武田軍)を多数討ち取り、年来の本望を達した」

どちらも「自分が勝った」と言っているわけです。

信玄はもともと、北信濃の領土獲得を目指して戦ってきました。この合戦を経て川中島一帯を獲得しているわけですから、その意味では「勝利した」と言えます。

一方、謙信の当初の目的は領土獲得ではなく、越後に攻め入ろうとした侵略者を追い出すことにありました。

こうした両者の主眼の違いが、「どちらも勝利した」という事態を生み出したのです。

『甲陽軍鑑』について

甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』とは何か

川中島の戦いを含む、武田信玄に関する物語のほとんどが、一つの軍学書によって構成されています。

その名も『甲陽軍鑑』。

江戸時代初頭に成立したとされる甲州流軍学の教典で、全59品から成り、武田信玄・勝頼の時代の軍記と実録が収録されています。信玄に仕えた高坂弾正昌信(春日虎綱)の記録をもとに、彼の甥である春日惣次郎や、虎綱の家臣らが書き継ぎ、武田家の足軽大将だった小幡昌盛の子・景憲が集大成した、という体裁で、景憲による写本(1656)が現存する最古の版元として遺されています。

徳川家康は甲州を支配する際に武田家の家臣を多数採用していました。そのため江戸時代に入ると甲州流軍学が盛んになり、『甲陽軍鑑』は読み物として広く親しまれるようになりました。

 

川中島の戦いに関する記述

「信玄と謙信の一騎打ち」や「啄木鳥戦法」など、「川中島の戦い」と聞いてイメージする数々のエピソードや戦法・戦術も、この軍学書をもとに形作られています。

甲陽軍鑑では、「品第二十八 村上義清、越後、長尾景虎を頼まるる事」や、「品第三十二 謙信との和睦ととのわずまた対陣の事」などで川中島について触れられています。村上義清とは、信玄が1542年に信濃侵攻を開始した当時のこの土地の有力者。信玄との幾度かの攻防の末に危機に陥り、上杉謙信(当時は長尾景虎)に来援を要請。これが第一次合戦を引き起こすきっかけとなります。

史料的価値を巡る論争の歴史

川中島の戦いのイメージを形作ってきた『甲陽軍鑑』ですが、明治時代に導入された実証主義的歴史学によってその史実性が疑問視されるようになりました。同時に、当時の史料から再度戦いの様子を復元する動きが盛んになります。

例えば、合戦の回数。この書の中では1547年から1561年までの間に12回繰り広げられたと記されていますが、長年にわたる議論の末、1928年に『史学雑誌』に掲載された渡辺世祐氏の論文「信濃に於ける甲越関係」の中で、実際には1553年から1564年までの間の5回だったと結論付けられています。これが現在の通説となっています。

また「一騎打ち伝説」など事実の記載に多くの誤りがあることも証明され、史料的価値が完全に否定されるようになりました。

しかし1990年代、国語学者の酒井憲二氏が国語学・文献学・書誌学的な観点から検討を重ねたことがきっかけとなり、その史料的価値が見直されつつあります。

川中島の戦いはもともと史料が少なく、正確に再現することはほとんど不可能とされています。しかし『甲陽軍鑑』の存在により、武将たちの姿がいきいきと描かれ、後世に語り継がれてきたのは事実。

武田家の家臣たちの中には、滅亡の危機に直面したとき、彼らの活躍や栄光を忘れてほしくないという思いがあったのかもしれません。

川中島の戦いの後の、武田信玄と上杉謙信の仲について

正面衝突を避けた二人

川中島の戦いの5回目の合戦以降、両者はその後、正面きって戦うことはありません。というのも、信玄は主な戦略を、駿河・西上野攻略と、より強固な北信濃支配の実現に転換していったためです。また謙信も関東管領として、関東地方の経営を重要な課題として位置付けていました。もはや両者には、川中島で争う理由がなくなっていたのです。

織田信長と外交関係を深めた武田信玄

ところで、信玄の同盟相手だった今川義元を織田信長が桶狭間の戦いで倒したことで、両者の関係が険悪なものになっていたことは想像に難くありません。

しかし、斎藤氏が支配する美濃の攻略を目指していた信長にとって、戦いを有利に進めるためには武田氏との関係を改善する必要がありました。そこで信長はまず、養女の遠山夫人を信玄の息子・勝頼の正室に迎えさせます。しかし夫人は男児(後の武田信勝)を産んだ後、25歳の若さで夭折。今度は自身の嫡男信忠と、信玄の娘松姫を婚約させます。さらに1569年には将軍足利義昭とともに武田・上杉の和睦に手を貸しており、表面上は友好関係を築いていたようです。

この状況が一変するのは、信長と将軍の関係が険悪化したときのこと。キリスト教を重んじていた信長が、比叡山焼き討ちなどの仏教徒弾圧を強化していたこともあり、信玄は将軍側について、浅井長政らとともに信長包囲網を形成していくことになります。

長篠の戦いで惨敗した武田勝頼が、もし謙信に救援を要請していたら

浅井・朝倉両氏とともに織田信長と徳川家康を圧していた信玄でしたが、持病が悪化し、ついに戦場に戻ることはありませんでした。『甲陽軍鑑』には、病床にあった信玄が息子の勝頼に語った言葉が遺されています。

「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから、頼ってゆけば若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。私は大人げないことに、最後まで謙信に頼ると言い出さなかった。おまえは必ず謙信を頼りとするがよい。上杉謙信はそのような男である」(『甲陽軍鑑』より ※引用元『NHK その時歴史が動いた20』)

信玄の死により攻勢に転じた織田・徳川連合軍は、浅井長政・朝倉義景を滅ぼし、足利義昭を京都から追放。勝頼が大敗を喫した長篠の戦い(1575)では、武田軍は1万人以上の死傷者を出したと言われています。

信玄に仕えた古参の家臣は、この戦いの直前に撤退を進言したと伝えられています。

もし勝頼がその言葉に従い、あるいは父の言葉の通り謙信を頼っていたら……そんなことを、思わず考えさせられますね。

武田家の滅亡

長篠の戦いを経て多くの重臣を失った勝頼は、相模の北条氏との甲相同盟締結や、越後の上杉氏との関係強化など、外交方針の再建を図ることになります。一時は信長との和睦を試みるも失敗しており、1582年、ついに織田・徳川連合軍による領土内への侵攻を許してしまいます。勝頼はなんとか活路を見出そうとしますが、家臣の中には造反者も多く、正室・北条夫人や息子の信勝とともに自害。これにより、武田家は滅亡していくことになります。

武田信玄と上杉謙信から生まれた諺「敵に塩を送る」の発祥とは?

「敵に塩を送る」という諺は武田信玄が塩の入手経路を断たれた際に、川中島の戦いで何度も戦をした敵である上杉謙信が信玄に塩を送り、窮状を助けたという出来事が由来とされています。

信玄への塩を供給していた今川家は桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ、徐々に衰退していました。それを見限った信玄は、今川、北条と結んだ「甲斐駿三国同盟」を破り、今川領である駿河を攻め落としました。これに激怒した今川氏真は駿河の塩商人に武田には塩を売らないように指示し、信玄への「塩止め」を実施しました。当時、塩は食料の保存にも使われたいたため、民衆も大打撃を受けました。

この状況を助けたのが、当時川中島の戦いで鎬を削っていた上杉謙信でした。敵である信玄に対して塩を送り助けたことは、敵対関係にある相手にも苦しいときは助けるという「敵に塩を送る」という意味の諺ができました。本来であれば敵が苦しんでいたら、その隙をついて攻め落とすこともできたはずであったのに、謙信は信玄を助ける道を選んだのですね。

しかし一説には、上杉謙信は武田信玄を助けるためではなく、儲けるために、信玄に高値で売ったとする説もあります。その証拠に謙信は一代で2万7140両、現在の価値で約35億円を築き上げたと言われています。このことからも謙信には商才があったことが見受けられます。その事例としては例えば、船に関税をかけることで税収を得たり、越後上布を売るために京に家臣を常駐させていました。そういったこともあり、信玄が塩に困っているとあれば、これを商売のチャンスと謙信は見たのかもしれません。

まとめ

武田信玄による甲斐の領土拡大から始まった、上杉謙信との5回に及ぶ川中島の戦いは、その後の戦国武将や江戸時代の武士に大きな影響を与えました。

ルイス・フロイスの『日本史』によれば、天下の織田信長でさえ信玄を「常に恐れて」いました。桶狭間の戦い以来冷え込んでいた信玄との関係を、政略結婚によってなんとか保とうとします。しかし仏教徒への弾圧が決定打となり決別。信玄は浅井長政らと手を組み、信長を圧倒しました。

もしここで信玄が病に倒れなければ、歴史はまったく別の方向に流れていたのかもしれません。志半ばに病没した信玄の跡を継いだ勝頼は、大敗を喫した長篠の戦いで急速に求心力を失っていきます。そして滅亡の危機に直面した家臣たちが、信玄・勝頼の活躍を後世に伝えるために『甲州軍艦』を完成させていきます。この書の中には、信玄がかつての宿敵・上杉謙信をいかに慕っていたかも、同時に記されています。

ところで信玄は謙信を高く評価していましたが、一方の謙信は、信玄のことをどのように評価していたのでしょうか。その辺りをもう少し詳しく掘り下げてみるのも、おもしろいかもしれません。

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