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【保存版】新撰組メンバーの愛刀を紹介!現存する刀とは?

新選組

「新選組」それがどういったものか詳しくは知らずとも、名前くらいは聞いたことがあるという方は多いでしょう。

新選組とは、幕末の京都において活動していた、現代で言う警察の役割を持っていた集団です。当時、徳川幕府側を応援する佐幕派と、幕府を倒そうとする倒幕派の争いが起きる中、京都の治安を守るべく、討幕派の動きを制圧する役目を持っていました。主要メンバーとしては隊長の近藤勇、副長の土方歳三や沖田総司が有名です。また、彼らには愛刀があり、近藤の愛刀「長曽祢虎徹」、土方は「和泉守兼定」、沖田は「菊一文字則宗」は特に有名ですね。

新選組と言えば有名なのは2004年の大河ドラマ「新選組!」ですね。三谷幸喜氏が脚本を手掛けたことでも話題になりました。

1.幕末最強と謳われた新撰組

池田屋事件

(1)成り立ちから全盛期「池田屋事件」まで

幕末最強と謳われた新選組、その成り立ちはどのようなものだったのでしょうか。尊王攘夷派の清河八郎が京都へ率いた浪士組の中で、彼の策略に乗って、反幕府勢力となった者、策略に乗らなかった者たちがいました。後者が壬生浪士組を結成し、その後、京都守護職の松平容保から目をかけられ、京都で暗躍する不逞浪士の取り締まりなどを任されるようになったのです。特に有名なのが「池田屋事件」でしょう。京都の街に火をつけ、天皇を長州に連れ去るという計画を事前に防いだことで、新選組の名前は一気に有名になりました。新選組は幕末の混乱時期を生き抜いた猛者たちの集まりであり、それが幕末最強の剣客集団と呼ばれた所以でもあるでしょう。

(2)有名な羽織

新撰組の羽織

ところで、新選組でイメージに沸くのが、浅葱色のダンダラ羽織ですね。ダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたときに着ていた羽織の柄とも言われています。

(3)新選組解散へ

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、新選組は旧幕府側と共に戊辰戦争を戦いましたが、初戦で新政府側に敗北してしまいました。その後、甲陽鎮撫隊と名を改めましたが、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退。方針の違いから隊士が離隊、近藤も新政府軍に捕われ処刑され、沖田も持病だった肺結核により江戸にて死亡するなど、勢力としてどんどん数が減っていくことになります。

土方ら残った隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本武揚に合流し、最後まで新政府軍と戦いましたが、弁天台場にて土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏しました。このようにして新選組は新時代の始まりとともに時代から消えていったのです。

2.新撰組局長「近藤勇」の愛刀「長曽祢虎徹」

近藤勇

(1)近藤の生い立ち

新選組局長として有名な近藤勇。彼の生い立ちや人柄はどのようなものだったのでしょうか。近藤は多摩で百姓の子として生まれました。彼を評する言葉はいろいろな人が残しています。例えば根岸友山の「思慮モナキ痴人ナリ」、同じ新選組隊長の永倉新八も「蛮骨をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」となかなか辛辣な言葉を残しています。部分情報ではありますが、粗暴な性格もあったのかもしれません。

(2)局長の功績とは?

近藤は烏合の衆である新選組をまとめる局長を務めるだけあって、その功績は大きなものがありました。実際、池田屋事件の際は近藤が誰よりも先陣を切って池田屋に突入するなど、局長自らも動いて周りを引っ張っていたことが伺えます。

(3)愛刀「長曽祢虎徹」

長曽祢虎徹

彼が愛した刀は長曽祢虎徹で、江戸新刀の代表工である長曽弥興里が作った刀と言われています。彼は1655年頃、50歳ほどのとき江戸へ出て刀鍛冶になったそうで、その後に作られたとみられます。近藤は池田屋事件のときにも虎徹を持って乗り込んだと言われています。

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(4)近藤の最期

そんな近藤は甲州勝沼の戦いにおいて、新政府軍に捕まり処刑されることになりましたが、なぜ処刑されたのでしょうか?勝沼の戦いにおいて土方は最後まで戦うことを主張しましたが、近藤は隊士の助命を文久3年8月の8月18日の政変やその後の三条縄手の古東領左衛門捕縛、翌年の池田屋事変、蛤御門の変の出動の際などには考えた上で自首する選択をしました。近藤の尋問に当たったのは、京都で嫌というほど新選組に苦しめられてきた土佐の香川敬三らでした。それが武士として切腹も許されない処刑という結果になった理由でしょう。

処刑された後の近藤の首が行方不明になっており、東大谷に葬られた説、一番隊隊長の斎藤一が奪い返したなど、その行方には諸説があります。

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3.鬼の副長「土方歳三」の愛刀「和泉守兼定」

土方歳三

(1)鬼の副長、その生い立ち

新選組、鬼の副長として、局長の近藤を隣で支え続けた土方歳三。彼もまた近藤と同じく多摩の地に農家の息子として生を受けました。小さいときは「バラガキ」と呼ばれ人をイバラのように痛めつける乱暴者という評判でした。

(2)土方の功績

彼の大きな功績としては数多くありますが、代表的なものとしては、池田屋事件が挙げられるでしょう。池田屋に最初に切り込んだのは近藤・沖田・永倉・藤堂の4名と言われています。一時は近藤と永倉の2人となりましたが、土方隊の到着で一気に戦況が有利になり、浪士を捕縛することもできました。

(3)愛刀「和泉守兼定」

和泉守兼定

土方の愛刀は和泉守兼定が知られています。長さは二尺三寸一分六厘、会津兼定十一代目、和泉守兼定が京都で作ったと言われています。文献などから、土方は8月18日の政変や池田屋事変、蛤御門の変の出動の際に和泉守兼定を使ったと想定されています。

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(4)鬼の副長、その最期

鬼の副長として幕末の混乱期をくぐり抜けてきた土方。死後、生家に送られてきた和泉守兼定のぼろぼろさがその生き様を物語っています。彼は旧幕府側がいくら不利になろうとも、最後の最後まで戦うことをやめませんでした。新政府軍による函館総攻撃が始まった戦闘の最中、彼は馬上で敵の銃弾を受け、討ち死にしました。辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ」。「東の君」がだれを指すのか諸説ありますが、体が死んでも魂は東の君を守りぬくという決意・覚悟の強さを感じる句です。

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4.新撰組一番隊組長 「沖田総司」の愛刀「菊一文字宗則」

沖田総司

(1)天才剣士の生い立ち

新選組一番隊隊長、沖田総司、彼は白河藩藩士の息子として江戸に生まれました。剣の腕は凄腕として知られていますが、性格はよく冗談を言う陽気な人物だったそうです。

(2)天才たる所以

彼が天才剣士と言われる所以としては、新選組の中だけでなく外からの評判もあったからでしょう。中だけの評判だとただの内輪のひいきとも見えますが、外の人の声からも彼の剣の腕前が評判だったことが伺えます。例えば新選組とよく衝突していた阿部十郎は「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」と語っています。

(3)沖田の愛した刀

菊一文字宗則

沖田の愛刀は菊一文字則宗と知られています。福岡一文字派の祖で備前国の刀工である則宗が作ったとされていますが、現存する彼の作った刀の中に「菊一文字」という刀は存在しません。当時すでに国宝級の刀となっていた則宗の刀を沖田が使っていたことは考えにくいという説もあり、実際に使っていたのは加州清光とも言われています。この刀は大きさが二尺四寸、池田屋事件の際に使われ、戦闘でボロボロになった加州清光を修理に出した記録が残っています。加州清光の何代目の作かは不明です。

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(4)若くしての死

天才剣士、沖田が病死したという話は有名です。彼は労咳、現代で言う肺結核によって20代の若さで亡くなりました。いくら剣が強い沖田でも病には勝てなかったのです。

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5.新撰組三番隊組長 「斎藤一」の愛刀「鬼神丸国重」

斎藤一

(1)謎の男、斎藤一の生い立ち

新選組三番隊組長、斎藤一。彼は新選組の中でも異質な存在として有名です。播磨国明石藩の足軽の息子として江戸に生まれた斎藤は隊の中でも無口で寡黙と言われています。しかし、新選組の様々な事件に関わる重要人物でもあり、行動に謎がある人物でもあります。

(2)新選組内での役割

斎藤は無敵の剣士とも呼ばれ、天才剣士・沖田とも肩を並べるほどの剣の腕前とも言われています。そのため、近藤や土方からの信頼も厚く、隊の中での規律を破った隊士たちの粛清にも駆り出されています。例えば、新撰組に参謀として迎えられた伊東甲子太郎が御陵衛士として分隊した際も、新撰組を離れていますが、これが土方の命によるスパイだったとの説もあります。

(3)愛刀「鬼神丸国重」

鬼神丸国重

彼の愛刀は鬼神丸国重、長さは二尺三寸一分、天和二年九月に作られたとされています。池田屋事件のときに使用したという記録が残されています。

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(4)龍馬暗殺との関わり

謎の多い斎藤ですが、なんと坂本龍馬の暗殺にも関わっている説があります。龍馬暗殺の真相はいまだに明らかになっていないのですが、その説の中に新選組による犯行ではないか、という説もあります。北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると斎藤一ではないかということで、彼は幕府から取り調べも受けています。

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6.初代筆頭局長 「芹沢鴨」の愛刀「備後三原守家正家」

芹沢鴨

(1)初代筆頭局長・芹沢鴨の人柄

新選組・初代筆頭局長の芹沢鴨、彼は新選組の前身、壬生浪士組の時代から近藤、土方らと行動を共にしていた人物です。出自については不明な点が多く、女癖や酒癖が悪く、粗暴な性格だったとも言われています。神道無念流免許皆伝で、剣の腕は立つ上に大柄な体格でした。

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(2)粗暴さを物語るエピソード

将軍警護の名目で上洛させた浪士組を尊王攘夷の先駆けに転じさせるという清河八郎の策略に乗らず、近藤らと共に壬生浪士組設立に関わっています。彼を物語る有名なエピソードとしては大阪へ不逞浪士を取り締まりに行ったときの事件が挙げられます。道を歩いていた芹沢が力士の集団とすれ違う際、芹沢が「端へ寄れ!」と怒鳴りましたが、力士の方もただの浪士だとなめていたのか、全く道を譲ろうとはしませんでした。これに怒った芹沢は持っていた鉄扇で力士を殴り、道を開けさせたのです。これに対して力士側も怒り、新選組隊士が泊まっている宿へ仕返しに来て、乱闘騒ぎに発展するのです。

新選組を預かる会津藩主・松平容保としては、こういった騒ぎをたびたび起こす芹沢を見過ごすわけにもいかず、近藤に何らかの指示をしたのではないかと言われています。結果的に芹沢を含めた芹沢一派は隊内において粛清され、芹沢も命を落とします。

(3)愛刀「備後三原守家正家」

備後三原守家正家

彼の愛刀、備後三原守家正家は二尺八寸、大阪力士との乱闘事件の際に使ったとされています。備後の刀工集団「三原」の作です。

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7.まとめ

ここまで、新選組の概要から組内の主要人物についてご紹介してきました。これでも人物としてはごく一部で、これ以外にも永倉や原田など、エピソードをたくさん持つ人物はたくさんいます。

新選組は成立当初からいきなり2つの派に分かれ、池田屋事件では一気に名を挙げるものの、反幕府勢力からは疎まれるなど波乱万丈な歴史をたどっていきました。江戸時代の終わりと共に新選組も消えていったわけですが、彼らがその後の時代に残した影響は計り知れないものがあります。

近藤は新選組を最後の最後まで守ろうとし、土方はその近藤が死ぬまで共に、そして死んでからも、その名誉を守ろうと戦い続け、死んでいきました。沖田は若き天才剣士ながら、病によって倒れるなど、主要隊士それぞれが持つエピソードはそのキャラクターを引き立てます。それもあってか、新選組が活躍していた時代から150年以上たった今でもその人気は衰えることがありません。

そして、各人物だけでなく、彼らが愛用していた刀とも一緒に作られたエピソードがたくさんあるのです。武士の時代が終わる幕末において、最後の最後まで剣の道に生き、そして死んでいった剣客集団、彼らは後世にまで語り続けられるでしょう。

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