【新撰組・土方歳三の刀】鬼の副長が愛用した「和泉守兼定」の秘密に迫る!

新撰組「鬼の副長」として、近藤勇や沖田総司らとともに活躍した土方歳三。ドラマや小説、漫画など多くのフィクション作品の中で題材に取り上げられており、今や知らない人はないほど人気の、幕末を代表する人物です。最近では女性向けゲームやアニメにも登場し、死後100年以上経った今も、根強いファンたちに語り継がれています。さらに2015年には刀を擬人化したオンラインゲーム「刀剣乱舞」がリリースされ、土方歳三や新撰組だけでなく、その刀にもスポットがあたるようになりました。

土方歳三が使っていた刀は数多くありますが、現在も博物館などで見ることのできるものは、「和泉守兼定」「大和守源秀國」「葵紋越前康継」のみ。そこで今回は、この三振りの刀についてご紹介します。

目次

1.新撰組・鬼の副長「土方歳三」の生涯に迫る
  (1)趣味で俳句を嗜む幼少期
  (2)鬼の副長として新撰組を統制
  (3)戊辰戦争での敗色
  (4)蝦夷箱館・五稜郭での戦死
2.土方歳三が最も愛用した「和泉守兼定」
  (1)会津藩の刀工「兼定」とは?
  (2)寸違いの「兼定」を複数所持していた
3.戊辰戦争で使われたといわれる「大和守源秀國」
  (1)「兼定」に次ぐ、会津藩の刀工「秀国」とは?
  (2)戊辰戦争で使われた「大和守源源秀國」
  (3)霊山資料館で現物を展示
4.佐藤彦五郎に贈った「葵紋越前康継」
  (1)江戸初期の刀工「越前康継」
  (2)京都守護職・松平から「葵紋越前康継」を受け取る
  (3)佐藤彦五郎に「越前康継」を贈る
5.現存する土方歳三の刀を見ることができる資料館をご紹介
  (1)土方歳三資料館
  (2)幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」
  (3)佐藤彦五郎新選組資料館
6.まとめ

1.新撰組副長「土方歳三」の生涯

それでは、土方歳三の生涯について、幼少期から詳しく見ていきましょう。

(1)趣味で俳句を嗜む幼少期

ところで、土方歳三とは一体どのような人物だったのでしょうか。

生まれは武蔵野国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)。1835年、10人兄弟の末っ子として生を受けました。「バラガキ」と称されるほど荒っぽい性格だった一方、俳人として知られる祖父の義徳や長兄の為次郎の影響で俳句を趣味としていたという一面もあり、京都に上洛する直前には「さしむかふ 心は清き 水かがみ」や「梅の花 一輪咲いても 梅はうめ」など全41の句を『豊玉発句集』にまとめています。この発句集は、現在は土方歳三資料館に収められています。

(2)鬼の副長として新撰組を統制

歳三の姉・のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎が試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んだ縁で、天然理心流に正式入門した歳三。1863年、14代将軍・徳川家茂を警護する浪士組として、近藤勇、沖田総司、斎藤一らとともに京都に赴くことになります。壬生浪士組の副長として、新見錦や山南敬助とともに局長の芹沢鴨、近藤を補助。芹沢暗殺後は新撰組の副長として組織編成に尽力し、京都の治安維持に務めました。

新撰組は、池田屋事件(1864年)を経て黄金時代を迎えます。「組織全体が一致して物事に対処し、場合によっては命さえ惜しまない姿勢が重要」と考えた歳三は、「士道に背き間敷事」から始まる4カ条の隊規を制定。隊士にこれを遵守させ、破る者は切腹させたといいます。そんな歳三は「鬼」と称するに相応しく、一方これにより、組織はより盤石なものになっていきます。

(3)戊辰戦争での敗色

しかし15代将軍・慶喜が将軍を辞し、大政奉還を行ったことで幕府は事実上崩壊。これにより1868年1月の鳥羽・伏見の戦いをもって、旧幕府軍と新政府軍によるおよそ1年にも及ぶ戊辰戦争の火蓋が切って落とされます。しかしその戦果は新撰組ら旧幕府軍にとって惨憺たるもの。新政府軍は最新式銃や大砲で戦況を圧し、洋式軍備の必要性を歳三らにつきつけました。

甲州勝沼の戦いでの敗戦後、近藤は流山で新政府軍に包囲され、投降します。歳三は助命を請いに江戸に上りますが、嘆願かなわず近藤は処刑。政府との恭順路線に反対していた歩兵奉行・大鳥圭介の軍に加わった歳三は宇都宮城に進軍し、一時は宇都宮城を陥落させるも、その攻防戦の中で負傷して戦線を離脱するなど、敗色は少しずつ濃くなっていきました。

(4)蝦夷箱館・五稜郭での戦死

仙台を脱出した旧幕府軍は、蝦夷箱館の五稜郭に入り、榎本武揚を総裁とする箱館新政府「蝦夷共和国」を樹立。歳三は陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任しますが、新政府軍が箱館総攻撃を開始した1869年5月、二股口の戦いで敵の流れ弾が腰に当たり、無念の死を遂げます。一説では、降伏を望む榎本らとの考えの相違から暗殺されたのではないか、とも言われています。埋葬場所が不明なこと、歳三の最期の言葉が伝わっていないこと(腰に銃撃を受けたのなら少なくとも即死ではなかった?)など不審な点も多く、その死については、今も多くの謎に包まれています。

2.愛刀「和泉守兼定」について

(1)会津藩の刀工「兼定」とは?

元治元(1864)年、池田屋事件の戦果を郷里に伝えるため、近藤勇が日野の佐藤彦五郎に宛てた手紙が残されています。その中に記載された「和泉守兼定」の刀身は2尺8寸。会津藩主・松平容保から下賜されたと伝えられる、土方歳三の愛刀として最も有名な刀で、作刀は、会津藩のお抱え刀工だった会津11代和泉守兼定によるものとされています。

寸違いの「兼定」を複数所持していた

一方、土方は寸違いの兼定を複数所持していました。現存している2尺3寸1分6厘の「和泉守兼定」は、箱館戦争の際、小姓・市村鉄之助によって遺髪や写真、手紙などと一緒に彦五郎のもとに送られてきた歳三最期の佩刀(はいとう)として伝えられています。作刀は12代目兼定の手になるもの。届けられた当時は物打ち部分にところどころ刃こぼれが見られるなど、騒乱の激しさを物語っていたとされています。保存のために昭和初期に一度研ぎ上げられ、今は刃こぼれした姿を見ることはできませんが、茶の石目塗に牡丹唐草と鳳凰の蒔絵が施された鞘にはいくつもの傷がついていたり、白鮫着せ黒糸巻の柄は摩耗が激しかったりと、土方がこの刀を、実践や鍛錬で日々手にしていた様子が伺えます。

歴史プラスで土方歳三の愛刀「和泉守兼定」を見てみる

3.愛刀「大和守源秀國」について

(1)「兼定」に次ぐ、会津藩の刀工「秀国」とは?

刀匠・秀国は、11代目兼定と同様、会津のお抱え刀工として名を馳せていました。歳三が使っていた刀は、松平に従い上洛していた秀国に彼自身が打たせたもの。近藤も、同じ時期に同じ銘の刀を三本打たせ、そのうちの一振りを彦五郎に、もう一振りを井上源三郎に贈っています(井上源三郎資料館蔵)。

(2)戊辰戦争で使われた「大和守源源秀國」

秋月登之助種明は、戊辰戦争の際に大鳥圭介率いる伝習隊に加わっていた会津藩士。宇都宮に進軍する際は土方を参謀に据え、自ら指揮官となって先鋒隊を率いていました。人望が厚かったという彼のことを、歳三も尊敬していたといいます。銘からは、そんな秋月に歳三が刀を贈った事実が分かります。

(3)霊山資料館で現物を展示

2016年4月から京都の霊山歴史館で一般公開されることとなった、土方歳三のもうひとつの愛刀、銘は「大和守源秀國」。鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いなど、戊辰戦争時に使用されたものと考えられています。刃長は2尺2寸8分、直刃の実用刀で、表銘には「大和守源秀國 秋月種明懇望帯之」、裏銘には「幕府侍土方義豊戦刀 慶応二年八月日 秋月君譲請高橋忠守帯之」と刻まれています。「義豊」とは歳三の死後につけられた諱(いみな)のこと。

歳三が所有していた「大和守秀國」には、縁金に土方が好きだったという梅の意匠が施されています。鞘の一部には帯で擦れ螺鈿が剥がれたような跡が、鯉口は一部が摩耗し色が薄くなった箇所があり、兼定と同様によく使い込まれていたことが分かります。

4.佐藤彦五郎に贈った「葵紋越前康継」

(1)江戸初期の刀工「越前康継」

越前康継は江戸初期の刀工。慶長年間に越前に移り住み、徳川家康の次男・越前北ノ荘藩主結城秀康のお抱え鍛冶師として活躍しました。このときに彼の優れた鍛刀技術が高く評価され、徳川家の「葵の御紋」を茎(なかご)に切ることが許されました。最後まで幕府のために戦い続けた歳三に、相応しい一振りといえるのかもしれません。

(2)京都守護職・松平から「葵紋越前康継」を受け取る

背負太刀作りの康継は長さ2尺3寸5分。表銘には「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」と刻まれており、佐藤家の伝承によると歳三はこの刀を、京都守護職でもあった松平から拝領したといいます。一方、裏銘には「安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払山田在吉試之」「同年十一月廿三日於千住府ト太々土壇払山田吉豊試之」と書かれています。山田在吉、吉豊は、吉田松陰や頼三樹三郎らを処刑したことで知られる7代目山田浅右衛門吉利の子ども。彼らの試し切りに使用された刀、ということになります。

(3)佐藤彦五郎に「越前康継」を贈る

甲州勝沼の戦いに、「春日隊」を結成して臨んだ佐藤彦五郎でしたが、新政府軍に敗れています。このとき彦五郎の長男・源之助は一時捕縛され、刀をすべて没収されてしまうことに。これを気の毒がった歳三が1868年に源之助に送った刀が、葵紋の入った越前康継でした。

5.現存する土方歳三の刀を見ることができる資料館をご紹介

土方歳三が当時愛用していた現物の刀が現在では3振り残っており、それぞれが資料館で展示されています。3つの現存する刀について見ていきましょう。

(1)土方歳三資料館

土方歳三が幼少期を過ごした生家の一角に開設された資料館です。

愛刀「和泉守兼定」をはじめ、直筆書簡や『豊玉発句集』、池田屋事件の際に使用された鎖帷子、歳三の人となりを詠んだ榎本武揚書額のほか、土方家の家伝薬である「石田散薬」に関連する資料や稽古に使用していた天然理心流の木刀など、70点余りが展示・公開されています。武道を志したときに手植えしたとされる矢竹が庭先に残されていたり、少年時代に相撲の稽古をした旧家屋の大黒柱が梁として使われていたり、故人の往時を偲ばせます。

「和泉守兼定」の刀身は毎年土方歳三の命日に合わせて公開されています。

「土方歳三資料館」の概要

■所在地:
東京都日野市石田2-1-3
■TEL:
042-581-1493
■開館日:
月2回
■入館料:
大人 500円 小・中学生 300円
■アクセス:
多摩モノレール万願寺駅から徒歩約3分、高幡不動駅から徒歩約13分
■HP:
http://www.hijikata-toshizo.jp/

(2)幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」

坂本龍馬や中岡慎太郎など、幕末の動乱期に殉死した志士たちが眠る霊山のふもとにある、全国で唯一の幕末・明治維新ミュージアム。坂本や桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛、高杉晋作ら倒幕の志士の遺品や書簡だけでなく、新選組や京都守護職・京都見廻組といった幕府関連史料も多く収蔵されています。2016年からは、所有していた市民からの寄贈を受け、土方歳三の愛刀「大和守源秀國」が常設展示されています。

「霊山歴史館」の概要

■所在地:
京都府東山区清閑寺霊山町1
■TEL:
075-531-3773
■時間:
10:00〜16:30(受付終了16:00)
■休館日:
毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替日
■入館料:
大人 700円 高校生 400円 小・中学生 300円
■アクセス:
市バス 東山安井、または清水道下車徒歩約7分
■HP:
http://www.ryozen-museum.or.jp

(3)佐藤彦五郎新選組資料館

土方歳三の義兄である佐藤彦五郎が所有していた新撰組に関連する史料を展示。葵御紋が刻まれた名刀「越前康継」や、歳三の横笛や鉄扇といった愛用品、新撰組のメンバーが彦五郎に宛てた書簡など、彼らの素顔が垣間見える品々が勢揃いしています。中には、歳三の遺品や遺髪と一緒に届けられたという、土方自身の写真も…。新撰組ファン・土方歳三ファンなら、絶対外せない立ち寄りスポットです。

「佐藤彦五郎新選組資料館」の概要

■所在地:
東京都日野市日野本町2-15-5
■TEL:
042-581-0370
■時間:
11:00〜16:00(受付終了16:00)
■開館日:
第1・第3日曜
■入館料:
大人 500円 小・中学生 300円
■アクセス:
JR日野駅から徒歩約10分
■HP:
https://sato-hikogorou.jimdo.com/

6.まとめ

石田村の農家に生まれた土方歳三が、佐藤彦五郎との出会いをきっかけに近藤勇らとつながりを持ち、京都に上洛してからは武士として幕府のために尽くした生涯。その腰にはいつも、武士の魂である「刀」がありました。

歳三最後の佩刀として知られる「和泉守兼定」は、動乱の時代を戦い続けた男の生きざまを象徴するものとして彼の生家で大切に保管され、その歴史を語り継いでいます。一方、刀の時代が終わりを告げ、銃や大砲が新撰組を圧倒した戊辰戦争のさなかでも果敢に敵を斬り伏せていたかもしれない「大和守源秀國」。彼の死後も人々の手を点々としたこの刀は、2016年には幕末史を語る重要な史料として、より多くの人たちの目に触れることとなりました。新撰組を最後まで支え続けた佐藤彦五郎の長男・源三郎に、自らの差料を譲り渡すという、歳三の懐の深さを垣間見るようなエピソードが印象的な「葵御紋越前康継」もまた、彼が生き、戦った証として、これからもその歴史を語り継いでいくことでしょう。

これら三振りの刀は、土方歳三資料館、霊山歴史館、佐藤彦五郎新選組資料館で見ることができます。もし足を運ぶ機会があったら、激動の時代を駆け抜けた志士の生きざまに想いを馳せてみてはいかがでしょう。

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