【伊達政宗の兜】兜に込められた意味とは?大きな三日月型前立ての秘密に迫る!

戦国時代の武将にとって、兜や鎧は身を守る武具であると同時に、自分自身を表現するアイテムでもありました。特に兜は今見ても突拍子もない変わった形や、度肝を抜くデザインが数多く残されています。 血なまぐさい戦場で、運を引き寄せ、己を象徴する。兜とはそんな武将の必勝祈願と心を表したものなのです。

そのなかでも、ひときわ洗練されていて有名な兜の1つは、伊達政宗のものでしょう。黒塗りの兜に大きな金の三日月がつけられた兜は、スタイリッシュな魅力にあふれていて、眼帯と並んで伊達政宗のトレードマークとなっています。

それでは、なぜ伊達政宗は三日月型を選んだのでしょうか。あの兜には、政宗のどのような思いが込められているのでしょうか。伊達政宗の人生を追いつつ、兜の秘密も調べてみました。

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目次

1.「独眼竜の英雄」伊達政宗の兜とは?
2.伊達政宗の兜(実物)は現存するのか?
3.伊達政宗の兜は仙台市博物館にある!
4.伊達政宗の経歴
  (1)伊達政宗のプロフィール
    ①名将「伊達政宗」の誕生
    ②父の期待を受けて成長した政宗
    ③伊達家を襲った第一の危機「輝宗の死」
    ④伊達家を襲った第二の危機「北条との決戦」
    ⑤伊達家を襲った第三の危機「秀吉の追求」
    ⑥伊達家を襲った第四の危機「朝鮮出兵」
    ⑦危機からの脱却「秀吉の死」
    ⑧静かな政宗の死
  (2)簡単な年表
5.伊達政宗の逸話
  (1)右目を自分でえぐり出した話
  (2)伊達者の由来となった話
6.伊達政宗の兜「三日月」に込められた意味
  (1)妙見菩薩、妙見信仰について
  (2)星に宿る力とは
7.伊達政宗の現存する兜が見られる仙台市博物館
  (1)仙台市博物館とは?
  (2)仙台市博物館で見れる3つの伊達政宗の兜について
    ①黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用
    ②銀伊予札白糸威胴丸具足
    ③三宝荒神形兜
8.まとめ

1.「独眼竜の英雄」伊達政宗の兜とは?

独眼竜と呼ばれた戦国時代最後の英雄、伊達政宗は、その異名の通りの隻眼とともに、大きな三日月の前立てをつけた黒兜で知られています。

細長い鉄板を重ね合わせて強度を高め黒漆を塗った、六十二間の筋兜で、前立ては金に色塗られた大きな三日月という、シンプルながらとても印象深いデザインでした。銘は「宗久」と記されています。

この兜と合わせて、5枚の鉄板を使って堅牢に仕上げた胴を用いた政宗の具足は「黒漆五枚胴具足」と呼ばれ、政宗以後の仙台藩伊達家の歴代当主や家臣にも受け継がれました。そのため、別名「仙台胴」ともいわれます。

月をモチーフにした前立てもまた、同じく歴代当主の兜に使用されました。ただし、2代目以降は三日月ではなく半月になっています。

実は、この月の前立てを決めたのは、政宗ではなく、その父である輝宗だと伝えられています。

政宗が生まれたとき、輝宗は政宗の旗印を白地に赤丸としました。「白地赤日の丸旗」と呼ばれる旗印は、そのイメージ通り太陽をモチーフにしており、現在の日本国旗とよく似ています。その旗印に合わせて、兜の前立てを月としました。

太陽は仏教における金剛界(こんごうかい)、月は胎蔵界(たいぞうかい)を表すといいます。金剛界・胎蔵界とは仏教の曼荼羅(まんだら)の種類を示す言葉です。そして、曼荼羅はこの世の理を表しているとされましたから、旗印と前立てはどちらも仏の加護を意味します。おそらく、我が子の成功と守護を願って考えた旗印と前立てだったのでしょう。

月を象徴するなら満月でも構わないはずですが、形として日輪と区別がつかなくなるために、三日月が用いられたようです。これから満ちていく月と考えれば、天下を狙う政宗の志を表しているようにも思えます。

ちなみに2代目以降の伊達家当主の前立ては弦月(半月)です。引き絞った弓のように見えることから「弓張月」とも呼ばれます。平和になった江戸時代でも戦を忘れない覚悟を示しているのかもしれません。

伊達政宗の辞世の句は「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く」というものでした。父の残した前立ての月は、政宗の生涯を通して人生の道を照らし続けた、心の月となったのでしょうか。

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2.伊達政宗の兜(実物)は現存するのか?

伊達政宗の兜の実物は、4領現存しています。まず、仙台伊達家に代々受け継がれてきた具足が、1951年(昭和26年)に仙台市に寄贈されました。今では仙台市博物館の所蔵となっています。同じく仙台市博物館に、家臣の菅野正左衛門重成が拝領したとされる具足が保存されています。また、岩手県の水沢駒形神社が所蔵する具足も、伊達政宗所用と伝えられています。そして決定的な実物が発見されたのが、1974年(昭和49年)に行われた伊達家墓所の発掘でした。

伊達政宗の墓所は現宮城県仙台市にある瑞鳳殿(ずいほうでん)です。1687年(寛永14年)に建設され、国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)に太平洋戦争の空襲によって焼失しました。その後1979年(昭和54年)に仙台市が再建しています。

その再建に先立ち、墓所の発掘調査がされました。伊達政宗のほぼ完全な遺骨とともに、多くの埋葬品が出土しています。 そのなかにあの有名な兜を含めた具足と同じものが一式納められていたのです。これは、一説には政宗が19歳のときに参戦した人取橋の合戦のときに着用した具足であるともいわれています。もしこれが本当ならば、予備や家臣に与えたものではなく、政宗が実際に使用した兜が現存していることになります。

少なくともこの発掘により、三日月型の兜が伊達政宗専用のデザインであったことがはっきりと実証されたのです。

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3.伊達政宗の兜は仙台市博物館にある!

前述したように伊達政宗の兜は4つ現存していますが、中でも最も有名な「黒漆五枚胴具足」は、仙台市博物館に展示されています。展示期間が限られているようですから、事前に公式サイトで確認することをおすすめします。

仙台市博物館に所蔵されている伊達政宗の鎧は、仙台伊達家に伝えられてきた1領と、菅野正左衛門重成が拝領した1領、計2領あります。仙台伊達家のものは重要文化財、菅野正左衛門重成拝領のものは仙台市の指定登録文化財です。正式名称は「黒漆五枚胴具足」で、代々仙台藩に受け継がれてきた形状であることから、通称「仙台胴」と呼ばれます。五枚胴とは、胴部分を分解すると5枚の鉄板でできていることからきており、当世具足(戦国期の鎧の名称)の種類の1つです。

継ぎ目のない鉄板を用いたこの鎧は、非常に防御力が高い仕上がりになっています。騎馬鉄砲隊を考案したとされる伊達政宗であるからこそ、鉄砲対策も考慮した選択なのでしょう。

大きな三日月の前立てがついた兜は、細長い鉄板を組み合わせ、頭を平らに潰した鋲でとめ継ぎ目を筋状に加工した「筋兜」という種類です。もともとは他の兜に比べて生産しやすい歩兵向きのものでしたが、使う枚数が多いほど重ね部分が増え、実質鉄板二枚重ねに匹敵する防御力が得られるようになったことから、大将レベルの武将も用いるようになりました。

この筋の数が、仙台伊達家のものと菅野正左衛門重成拝領のものではっきり異なる特徴です。伊達家伝来は六十二間、菅野正左衛門重成拝領は三十二間になっています。筋の数が多いほど製造するために高度な技術が必要ですし、防御力にも影響を与えるので、菅野正左衛門重成拝領のものはもともと贈答用に作ったものだったのかもしれません。

仙台市博物館でこの2領を見る機会があったら、ぜひ比べてみて下さい。また、兜に刻まれた銘も異なり、伊達家のものは「宗久」、菅野正左衛門重成拝領のものは「明珎信家」になっています。

また特徴である大きな三日月の前立ては、右腕側が少々短くなっており、武器を振り下ろすときに邪魔にならないようにできています。美しさ、派手さとともに、戦場での機能性も考えられていたのです。

4.伊達政宗の経歴

(1)伊達政宗のプロフィール

奥州の独眼竜・伊達政宗は、死の前の晩に「畳の上で死ねるとは思わなかった」と告げたといいます。そんな伊達政宗の人生は、戦国の世とはいえ、まさに波乱万丈でした。

①名将「伊達政宗」の誕生

伊達政宗は、1567年(永禄10)に、伊達家16代当主、輝宗の長男として生を受けました。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)といいます。5歳のときに疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかりました。命こそとりとめたもの、右目を失明してしまいます。一説には右眼窩の肉が盛り上がり目玉が飛び出たようになったともいいます。幼少時の政宗は引っ込み思案の大人しい子どもだったようですが、右目の失明と異相によりますます内向的になりました。そのため、家臣から跡継ぎには物足りないと思われたばかりか、母親である保春院にも拒絶されてしまいます。

しかし、そんな政宗を大切にしていたのは父の輝宗でした。政宗が疱瘡にかかった翌年に名僧と名高い虎哉宗乙を招いて教養と帝王学を学ばせたほか、傅役としてまだ年若い片倉小十郎を抜擢し、さらに伊達成実を近習としてつけます。この二人は後の伊達家において「智」と「武」を代表する部下となり、政宗を支え続けましたから、輝宗は人の才能を見抜く目があったのかもしれません。

②父の期待を受けて成長した政宗

父の期待を受けて成長した政宗は1581年(天正9)に初陣を飾り、3年後の1584年(天保12)に18歳で家督を譲り受け、伊達家17代当主の座につきます。この頃、東北地方はまだまだ群雄割拠の状態でした。政宗の周りには佐竹、芦名を筆頭に、結城、二階堂、岩城、石川、相馬といった武将たちが互いに駆け引きをしており、政宗は後を見据えて奥州統一を目指し戦うことになります。

主に外交によって東北の力関係を調節していた父の輝宗と違い、政宗は大胆でしかも苛烈でした。そんな政宗の戦略転換が原因となり、輝宗は生命を落とすことになります。和睦のために来たはずの畠山義継が、帰り際に輝宗を拉致し殺害したのです。

③伊達家を襲った第一の危機「輝宗の死」

輝宗が世を去ったことで、奥州の均衡は完全に崩れました。伊達家は周囲のすべてを敵に回して戦うことになります。政宗の人生は綱渡りの連続でしたが、これが第一の危機でした。特に輝宗を失った同年に行われた「人取橋の戦い」は、南奥州連合軍と伊達家の戦いとなり、戦術的には完膚なきまでに叩き伏せられた敗戦です。

これより、1589年(天正17)に摺上原の戦いで蘆名義広(あしな よしひろ)を破るまで、政宗は敵だらけの中で戦い続けることになります。

④伊達家を襲った第二の危機「北条との決戦」

しかし、この戦い続けたことが第二の危機を呼び寄せました。実は1587年(天正15)に、豊臣秀吉が関東や奥州の武将に対して、私戦を禁じる命令を下していたのです。(惣無事令)しかし、政宗は秀吉を無視して勢力を拡大していました。激怒した秀吉は政宗に上洛して釈明するように命を発し、北条氏との決戦であった小田原城包囲戦でも参戦を命じます。

このとき、政宗は髪を切りそろえて垂らし、白い陣羽織をまとって秀吉に謁見しました。死に装束をイメージさせる格好で、死の覚悟をアピールしたのです。秀吉好みの派手なパフォーマンスと、小田原城が落ちる前に間に合ったこともあり、政宗は死罪を免れます。

⑤伊達家を襲った第三の危機「秀吉の追求」

3回目の危機もまた秀吉でした。1590年(天正18)に起こった大崎・葛西の一揆を、裏で扇動していたことが秀吉に知られ、またも釈明のために上洛を命じられます。この時も金塗の貼りつけ柱を先頭に上洛し、秀吉の追求も舌先三寸で躱してなんとか事なきを得ました。

⑥伊達家を襲った第四の危機「朝鮮出兵」

この後、政宗は表向きでは秀吉のために尽くしつつ、次の戦乱に備えて力を蓄えます。朝鮮出兵では、秀吉から感状をもらうほどの奮戦をしました。1595年(文禄4)に4度目の危機が訪れます。関白である秀次の謀反が疑われたときに政宗も関与していると勘ぐられ、三度上洛を命じられます。この時ばかりは小細工が通じないと悟った政宗は、戦も辞さない決死の覚悟で釈明に望み、なんとか疑いを晴らすことができました。

⑦危機からの脱却「秀吉の死」

秀吉が世を去ったのち、徳川家康は政宗の娘である五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を申し込んできます。家康は政宗を取り込みにかかったのです。政宗は政宗で、秀吉亡き後再び戦乱が訪れると考え、家康と手を結びつつも天下を伺います。

1600年(慶長5)に始まった仙台城(青葉城)の造営も、天険要害の地に豪壮な大手門と隅櫓(すみやぐら)を設置した堅城でしたが、天守閣を造りませんでした。これは家康に対して「これからの平和な世に天守閣はいらない」というアピールであり「もう天下に野心はない」というパフォーマンスだったと考えられます。

その野望が大きく変化したのは、家康が征夷大将軍に任じられた辺りからでしょう。もう一度世は乱れると考えていただろう政宗にとって、征夷大将軍家康の存在は戦乱から治世への時流の変化でした。機を見る目を持っていた政宗は、ここから第一目的を自国の繁栄と伊達家の永続に切り替えます。

息女五郎八姫と家康六男、忠輝の結婚。嫡男虎菊丸(後の忠宗)と家康の庶子市姫の婚約と、立て続けに将軍家との関係を深めていきました。また、大阪冬の陣ではほとんど活躍しませんでしたが、夏の陣では片倉小十郎景綱の子である重綱が「鬼の小十郎」と呼ばれるほどの縦横無尽の奮戦をし、勝利に多大な貢献をします。

豊臣家が滅亡し、徳川将軍家が名実ともに日本を統治するようになると、政宗はますます徳川家に忠誠を示すようになりました。その成果でしょうか。家康も第二代将軍秀忠も、政宗に後事を託しています。第三代将軍家光は、秀忠が亡くなった後に諸大名に対して牽制とも言える演説を行っていますが、政宗は率先して賛同し忠誠を示しました。

⑧静かな政宗の死

1636年(寛永13)政宗は病床にありましたが、それでも決まり通りに江戸に上り、江戸屋敷で息を引き取ります。家光は政宗の死を嘆き、江戸で7日、京都で3日間、一切の殺生と音曲を禁止しました。外様であった政宗の死に対して、異例とも言える対応でした。

最後の戦国大名、奥州の独眼竜、伊達政宗は波乱万丈の人生を歩みつつも、仙台藩を盤石のものとし、将軍家光に惜しまれつつ70歳の生涯を終えたのです。

(2)簡単な年表

右目の喪失や、戦での活躍など波乱万丈の人生を生きた伊達政宗の年表を見ていきましょう。

年号 年齢 できごと
1567(永禄10) 1 米沢城にて誕生。
1571(元亀2) 5 疱瘡にかかり、右目を失明する。
1577(天正元) 11 元服して、藤次郎政宗と改名する。
1579(天正7) 13 田村清顕の娘、愛姫と婚姻する。
1581(天正9) 15 相馬氏との戦で初陣を飾る。
1584(天正12) 18 父、輝宗より家督を譲り受け、伊達家17代当主となる。
1585(天正13) 19 大内定綱を攻め、小手森城の大内一族を撫で斬り(皆殺し)にする。
父、輝宗が畠山義継に拉致され死去。
人取橋の戦い
1589(天正17) 23 摺上原の戦いで芦名義弘を破り、黒川城へ入城。会津、大沼、河沼、耶摩の4郡を得る。
1590(天正18) 24 弟、竺丸小次郎を処刑する。
豊臣秀吉の小田原攻めに参戦。秀吉に謁見する。
宇都宮で再度秀吉に謁見し、臣従する。
大崎、葛西の一揆に、扇動した疑いをかけられる。
1591(天正19) 25 京都に上洛し、秀吉に弁明、許される。
大崎、葛西の一揆を鎮圧。
大崎、葛西を与えられ、代わりに長井、信夫、伊達、田村、刈田、安達を没収される。
1593(文禄2) 27 朝鮮出兵に参戦。普州城を攻略するなど、奮戦する。
1595(文禄4) 29 関白秀次の謀反事件に関与した疑いで、大阪で秀吉に謁見。かろうじて難を逃れる。
1599(慶長4) 33 娘である五郎八姫と、徳川家康の六男忠輝との婚約。
1600(慶長5) 34 上杉景勝討伐に参戦。
1601(慶長6) 35 仙台城の建築を始める。
近江国5000石加増。および刈田郡を与えられる。
1606(慶長11) 40 五郎八姫と忠輝、結婚。
1607(慶長12) 41 嫡男、虎菊丸と家康の息女市姫が婚約。(後、市姫が早逝し破談)
1608(慶長13) 42 陸奥守に任じられる。
1611(慶長16) 45 仙台城にてソテロと会見。キリスト教の布教活動に許可を出す。
1613(慶長18) 47 支倉常長、スペインへ向けて出港
1615(元和元) 49 大阪夏の陣に参戦。
1616(元和2) 50 家康から後事を託される。
忠輝が改易され、五郎八姫が伊達家に戻る。
1617(元和3) 51 嫡男、忠宗(虎菊丸)と徳川秀忠の養女、振姫が結婚。
1620(元和6) 54 支倉常長がスペインより帰国。
1625(寛永2) 59 秀忠より後事を託される。
1632(寛永9) 66 秀忠死去に登営した諸侯に対して行った徳川家光の演説に賛同し、諸侯を牽引する。
1636(寛永13) 70 病をおして江戸へ上がり、病状悪化。そのまま江戸で死去。

5.伊達政宗の逸話

(1)右目を自分でえぐり出した話

伊達政宗の右目についてはさまざまな逸話が伝わっていますが、そのなかには自ら右目をえぐり出したという話があります。正確には右腕である片倉小十郎景綱が潰したそうです。

右目が飛び出ていたとか、肉が盛り上がっていたと伝わっていますが、政宗にとって自分の右目はやはり見苦しいものでした。ある日、政宗は近習に「この邪魔な右目を潰せ」と命じます。いくら主君の命令とはいえ、そんなことはできないと皆が尻込むなか、片倉小十郎が進み出て小刀で政宗の右目を突き潰したというのです。

これは江戸時代に伊達家でまとめられた歴史書である「伊達治家記録」に記されています。ある程度時がたってからの記録ですから、本当なのかは確認できませんが、政宗と小十郎の豪胆さが伝わってくる逸話です。

(2)伊達者の由来となった話

「伊達者」という言葉は「洒落た、粋な、豪華な」という意味合いですが、この語源が伊達政宗にあるという説が存在します。

豊臣秀吉が下した私戦禁止令を破り、小田原攻めにもなかなか参戦しなかった政宗は、いざ参陣したときに、髪を切りそろえて垂らし、鎧の上に死に装束に見える白い陣羽織をまとっていたそうです。そのパフォーマンスが、もともと派手好みの秀吉を和ませ、死罪を免れたといいます。

また、後日再び秀吉の怒りを買い釈明に赴いたときには、金塗りのはりつけ柱を先頭に上洛しました。さらに、朝鮮出兵時にも軍勢すべてきらびやかな装束で上洛し、京都の見物人から喝采を受けたといいます。

このように政宗はここぞというときに、派手でありながら武将としての覚悟を示したパフォーマンスを披露してきました。そこから粋で洒落た格好や行いを「伊達者」と言うようになったと言われています。語源として正しいかどうかはともかく、己の美学を持っていた伊達政宗の言動を考えると、とても説得力がありますね。

6.伊達政宗の兜「三日月」に込められた意味

(1)妙見菩薩、妙見信について

伊達政宗の兜の前立てが月をモチーフにしているのは、前述したように父・輝宗の願いが込められていたと考えられます。しかし、そもそも星や月といった天体は神々の象徴でもあり、加護を願って旗印や模様に取り入れることが多くありました。

そのような星々を象徴した仏の1つに妙見菩薩が挙げられます。中国の道教において北極星を表す天帝や、北の星宿(星座)を神格化した玄天上帝が仏教に取り込まれて生まれた仏様です。

(2)星に宿る力とは

北極星は星のめぐりの中心に位置し、物事の根本を象徴することから、真理を見通す力があるとされました。その由来から「妙見(見通す力)」と名前がついたようです。道教や仏教などさまざまな宗教のイメージが混ざって生まれた妙見菩薩は、決まった姿がないのですが、一般的には鎧と剣をもった武将として描かれます。そのため、武家が守護神として信仰することも多く、特に千葉氏や九戸氏など関東から東北にかけて信仰を集めていました。

伊達政宗の三日月の前立ては、妙見信仰と直接結びつくわけではありません。ですが、太陽や月は天体の中でも特に人々の生活に密接に関わるためか、神格化され、戦場の加護を願う武将たちの兜や鎧を飾るモチーフとなりました。政宗の父である輝宗が、息子の旗印に日輪、前立に月を選んだのも、そのような神仏の守護を得ようとしたのでしょう。

7.伊達政宗の現存する兜が見られる仙台市博物館

(1)仙台市博物館とは?

仙台市博物館は、まさに仙台伊達家の宝物を展示するために生まれたと言っても過言ではありません。1951年(昭和26年)に仙台伊達家から寄贈された文化財を保管、展示するために開館したミュージアムが仙台市博物館なのです。支倉常長像をはじめとした国宝3点を代表に、伊達政宗の肖像画や江戸期の仙台藩に関わる浮世絵、蒔絵や人形など、仙台伊達家に伝わる宝物、仙台藩に関連する美術品や文化財が約9万点も所蔵されています。

伊達政宗や仙台藩に関係する品々を鑑賞するなら、質量ともにもっともオススメな博物館といえるでしょう。

通常の博物館は基本的に常設展示が固定されていますが、仙台市博物館は季節によって常設展示も変わります。伊達政宗の兜が見たいのであれば、事前に展示期間を確認しておきましょう。同時に季節ごとに別の展示物が鑑賞できますから、何度でも楽しむことができます。仙台に行ったら訪ねてみたいスポットの1つです。

■開館・閉館時間:
9:00〜16:45(最終入館時間16:15)
■定休日:
毎週月曜日(祝日・振替休日は開館)、祝日・振替休日の翌日(土・日・祝日は開館)
■場所:
宮城県仙台市青葉区川内26番地
■アクセス:
【地下鉄東西線】仙台駅から八木山動物公園行きに乗車、国際センター駅下車して南1出口から徒歩8分
【るーぷる仙台】仙台駅西口バス16番乗り場「るーぷる仙台」乗車、博物館・国際センター前で下車。徒歩3分。
【自動車】仙台宮城インターより、約10分。駐車場(無料。普通車50台、バス5台)
■入館料:
大人460円、高校生230円、小・中学生110円。
(30名以上団体料金:大人360円、高校生180円、小・中学生90円、特別展示は別料金)

(2)仙台市博物館で見られる3つの伊達政宗の兜について

仙台市博物館では、現存する「黒漆五枚胴具足」「銀伊予札白糸威胴丸具足」「三宝荒神形兜」3つの兜を見ることができます。

①黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用

■概要
形質:鉄製漆塗
大きさ:胸高37.6cm、鉢高13.5cm
年代:桃山時代(16世紀)
使われた戦い:人取橋の戦い、ほか。
■特徴:

黒漆塗りの鉄でできた当世具足です。金の三日月の前立てをつけた六十二間の筋兜。5枚の鉄板を蝶番で繋いだ胴で、肩上も同じ構造でできています。草摺は九間六段下がり。鞐や鵐目など部品は赤銅が用いられました。 基本となる五枚胴具足は、伊達政宗が鎌倉雪ノ下の甲冑師である名珍を招き製作したものと伝えられており、その後、仙台藩伊達家当主および家臣の具足として受け継がれたため「仙台胴」と呼ばれました。シンプルながら頑強な造りで、鉄砲が使用され始めた時代に対応した鎧になっています。重要文化財。伊達家寄贈文化財。

②銀伊予札白糸威胴丸具足 豊臣秀吉所用 伊達政宗拝領

■概要
形質:皮製銀箔押
大きさ:胸高32.5cm、鉢高29.5cm
年代:桃山時代(16世紀)
使われた戦い:不明(秀吉から拝領したため、戦場で使用したか不明)
■特徴

銀箔を貼った小札(胴を構成する部品)を白糸で留めた胴丸具足です。左脇には猩々緋の羅紗布が用いられています。熊毛とヤクの毛で飾られた兜の前立ては金色の軍配型で、模様は月と蛇の目の2種類。金具まわりには高台寺様式の菊桐紋蒔絵が施されています。

政宗の鎧と違い白を基調とした美麗な具足で、戦よりは祭礼用に適しているように思えます。

1590年(天正18)に、奥羽仕置のために奥州へ赴いた豊臣秀吉を、宇都宮で出迎えた伊達政宗が、拝領したと伝えられます。派手好みの秀吉らしい具足ではないでしょうか。 重要文化財。宮城県指定文化財。伊達家寄贈文化財。

③三宝荒神形兜 具足共 伝上杉謙信所用

■概要
形質:鉄製漆塗
大きさ:胸高36.4cm、鉢高30.5cm
年代:室町時代(16世紀)
使われた戦い:不明
■特徴

上杉謙信のものと伝えられる具足です。1679年(延宝7)に、旧上杉家臣であった登坂家から伊達家に献上された品ですので、伊達政宗とは直接関係ありません。

特徴的な兜部分は、張懸(はりがけ)と呼ばれる草や紙に漆を塗って造形する技術で、三宝荒神を表現しています。三宝荒神は三面六臂の姿で表される日本特有の守護神で、仏の三宝(仏法僧)を守り、不浄を清めるとされていました。この兜は、三宝荒神の由来通り三面の忿怒相を飾り付けたものです。

上杉謙信は武神である毘沙門天を厚く信仰したことで有名ですから、このような仏教由来の兜を残したとしても不思議ではありません。ただしおそらくは、戦用ではなく家臣に下賜するための贈答用具足だったと思われます。

8.まとめ

伊達政宗の兜は今見てもスタイリッシュな、まさに「伊達な兜」です。洗練された美しさだけでなく、五枚胴具足と合わせて、戦国時代の戦場に適した堅牢な鎧でもあります。この印象深い金色の三日月は、父である伊達輝宗が息子に対する期待と仏の加護を祈願して決めた、月の前立てに由来するようです。

母の裏切りや弟の処刑など、政宗と家族の縁は酷薄ともいえましたが、輝宗は政宗を大切に次代の当主として育て上げました。幼少時の帝王教育や、早くから側につけた片倉小十郎や伊達成実など、輝宗は後の政宗を支える布石をしっかりとうっています。

奥州の独眼竜、戦国最後の英傑が生まれた背景には、月の前立てにも込められた父・輝宗の思いがあったといえるでしょう。

その願いを知っていたのかどうかは分かりませんが、政宗は生涯この三日月型の兜を使い続けたようです。現に政宗の墓所である瑞鳳殿には、同型の具足一式が副葬品として納められていました。辞世の句でも月を例えに用いていることから、政宗にとって月とは自身の人生の象徴だったのかもしれません。

そんな伊達政宗の兜の実物は、仙台市博物館で所蔵されています。定期的に常設展示されていますから、事前に展示期間を確認して訪ねてみて下さい。他の伊達家由来の品々と合わせて鑑賞すれば、伊達政宗の生涯とその後に受け継がれた仙台伊達家の歴史を見ることができるでしょう。

歴史プラスで伊達政宗の兜を見てみる
  • 新撰組
  • 模造刀
  • 仏像フィギュア

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