新撰組・初代局長「芹沢鴨」の生涯について - 愛刀、新撰組、暗殺の真実とは?
今も愛され続ける幕末の侍集団「新撰組」その初代筆頭局長・芹沢鴨。僅か約半年で味方である筈の近藤勇らに暗殺された彼ですがその強烈なキャラに、様々なエピソードが残されています。また、そんな芹沢鴨が愛用した刀「備後三原守家正家(ビンゴミハラノカミケマサイエ)」も由緒ある歴史の名刀です。今回は、芹沢鴨の生涯と、愛刀「備後三原」について紹介します。
目次
1.備後三原守家正家について
(1)備後三原守家正家のエピソード
(2)備後三原守家正家の展示場所は?
①徳川家
②毛利家
③その他有名人
2.新撰組としての「芹沢鴨」とは?
(1)地元でもワルだった?芹沢鴨という人物
(2)新撰組初代局長・芹沢鴨
(3)粗暴という人柄だけではなかった?
3.芹沢鴨が愛した「お梅」という人物
(1)呉服問屋の妾・お梅との出会い
(2)呉服問屋から新撰組へ。芹沢鴨の略奪愛?!
4.何故芹沢鴨は暗殺されたのか?
(1)隊内で二極化する勢力
(2)芹沢鴨の最期・暗殺の経緯とは
5.まとめ
1.備後三原守家正家について
芹沢鴨が所持していた愛刀「備後三原守家正家(ビンゴミハラノカミケマサイエ)」は二尺八寸の打刀。切れ味がよいと評判の刀で、実戦刀として武将・侍の間で愛用されていたそうです。
備後三原守家正家の歴史は長く、初代の「古三原(コミハラ)」は鎌倉時代にて殆どの刀が無銘(製作者の名前が掘られておらず名無しの状態)で制作されていました。ですが実戦に使われるにつれて「切れ味が良く使い易い」という評判が広まり、それからは様々な人々に愛される刀となりました。
後に古三原が有名となりその勢いに乗り、平安時代備後に刀工集団・「三原正家」として鍛刀所を構える事となったのです。その歴史は廃刀令が敷かれた後に段々と需要が先細ってゆき、最後の刀工が亡くなる明治28年で備後三原守家正家の歴史は幕を下ろしました。
(1)備後三原守家正家のエピソード
初代の古三原からじわじわと口コミで愛用者が増えていった三原派ですが応仁の乱では刀の需要が増え、瀬戸内の海賊も刀を使うようになりそれに伴い「三原の刀は丈夫で曲がらずよく切れる」と評判が上がり一気に知名度が上がったといわれています。
芹沢鴨においての備後三原守家正家という刀のエピソードで一番有名なものは「大阪での力士との乱闘事件」ではないでしょうか。
新撰組(この乱闘事件の頃はまだ新撰組という名は付いていなく「壬生浪士」と呼ばれていました)が大阪へ遠征中の出来事。芹沢鴨が力士たちと道端で「どちらが道を譲るか」という内容で揉めてしまい、持ち合わせていた鉄扇でしばきまくって力士達を退散させてしまいます。その夜、お礼参りに仲間を呼んだ力士達が再度打ち上げ宴会中の芹沢鴨の元へ訪れたのですが、泥酔した芹沢鴨は備後三原守家正家で力士達を切り付け、死傷者を出す大惨事に。この事件の際数名新撰組の仲間も居ましたが軽傷程度、芹沢鴨に至っては泥酔していたにも関わらず無傷だったといいます。
(2)備後三原守家正家の展示場所は?
芹沢鴨の備後三原守家正家は暗殺後新撰組の誰かの手に渡ったと見えますが、現在詳細が不明となっており行方知れずのままです。ですが備後三原守家正家の本物をこの目で見てみたい!という方の為に名刀・武将の愛用刀として現在まで伝えられ、展示・保管されている「三原派」の刀をご紹介します。
①徳川家
- 持主・第八代将軍 徳川吉宗・銘「三原」・刀 江戸東京博物館
- 第九代将軍 徳川家重・銘「三原」・刀 徳川美術館
- 第十一代将軍 徳川家斉・銘「正家」・太刀 徳川美術館
- 尾張徳川家八代 勝家・無銘 木梨三原・刀 徳川美術館
②毛利家
- 持主・毛利元就・無銘 伝三原・打刀(差指) 毛利博物館
- 毛利隆元・無銘 伝三原政廣・脇差 厳島神社(奉納)
③その他有名人
- 持主・豊臣秀吉・無銘 伝三原・太刀 長野市立真田宝物館
- 細川幽斎・無銘 伝三原・脇差 熊本県立美術館
また、三原派の刀剣は国の重要文化財・重要美術品として東京国立博物館や岡山県立博物館に多く寄贈をされているそうです。余談ですが室町時代の日明貿易の際大量に三原派の刀が輸出されているので今後海外でも発見される事があるかもしれませんね。
歴史プラスで「芹沢鴨」の模造刀を見てみる2.新撰組としての「芹沢鴨」とは?
上記、芹沢鴨の刀エピソード「大阪力士騒動」から見るも芹沢鴨とは中々豪気というか粗暴という性格が伺えると思います。新撰組立ち上げに関わり、初代局長に選ばれたのち、最期には仲間に暗殺されてしまうという悲劇の立役者芹沢鴨について語らせて頂きたいと思います。
(1)地元でもワルだった?芹沢鴨という人物
芹沢鴨は水戸藩(茨城県)芹沢村出身。「芹沢鴨」は本名ではなく、下村嗣次という名前でした。芹沢鴨は出自がハッキリしていないところも多く、諸説が色々あり謎が多い人物ですが実家は郷士で次男か三男・神道無念流の師範役という経歴であったといわれています。
新撰組として活動をする以前は「天狗党」という団体に所属していました。
この天狗党とは尊皇攘夷(黒船の時代から海外の侵略を防ぐ思想)の名の元に、お金を巻き上げたり暴力に訴えたりと好き放題してしまったがために中々評判が悪い団体であったようです。幕府がその時攘夷に反発する勢力が多かった事と天狗党があまりに目に余ったのもあったのでしょう。
下村嗣次(芹沢鴨)を含む天狗党の幹部は拘束され、死刑を言い渡されます。拘束された後処刑されるのを待つ日々でしたが、その間政府の世論が変わり2年後、下村嗣次らは釈放されたのでした。
釈放から2か月後、水戸藩を去った下村嗣次は江戸にて清河八郎の「将軍をお守りする」という呼び掛けに「芹沢鴨」と名を変え、新見錦他同郷の仲間たちと参加をします。この呼び掛けには他にも多数の浪士が集まり同じ志の中、一行は京都へ向かったのです。
しかし実は清河八郎は「将軍をお守りする」為ではなく、「天皇の配下として遣わせるため」という理由で浪士たちを集めていたことが発覚。騙されたと知った多数の浪士たちの意見は分かれました。
そのまま配下として付いて行った者、清河八郎の計画を阻止するために江戸に戻った者、京都にそのまま残って当初の志の通り「将軍をお守りする」役目を果たそうと新しくその場で組を結成した者…
芹沢鴨と同郷の仲間たち4名の芹沢組は勿論後者を選びました。そしてもう1組、後者を選んだ浪士組が居たのです。それが近藤勇・土方歳三・沖田総司たちが所属する近藤組でした。
この同じ志で結成された2組が後の「新撰組」と名乗る事となるのです。
(2)新撰組初代局長・芹沢鴨
壬生村で屯所を構え、活動していたために「壬生浪士組」と呼ばれるようになった2組。同じ志で結成された組な筈…でしたが出身が同じ者たち同士の方が気の知れた仲間という意識がお互いにあったのでしょう。1つの組になった壬生浪士組内でも芹沢派と近藤派で分かれ、屯所も壬生村内の八木邸で世話になっていたのは芹沢派・前川邸で世話になっていたのは近藤派と拠点も2か所に分かれていました。
その後隊員も募集し、少しずつ大所帯になり京都の警備も任されるようになった壬生浪士組。この辺で隊規や役割を決めようと至ったため、まず隊の役職を決める事に。
- 筆頭局長 芹沢鴨
- 局長 新見錦・近藤勇
- 副局長 土方歳三・山南敬助
局長は3人、その中での「筆頭局長」が芹沢鴨となりました。芹沢派の新見錦も局長のポジションに。ですがその他の役職は近藤派で固められています。ここら辺から既に近藤派の不穏な空気を感じるのは気のせいでしょうか…
(3)粗暴という人柄だけではなかった?
「芹沢鴨という人物は暗殺されるだけの行いをしていた」という印象も強いですが屯所として世話になっている八木邸にて葬式があった時は受付を引き受けたり、子供たちが退屈しないよう絵を描いて一緒に遊ぶ面倒を見たりという一面もあります。屯所内では子供たちに慕われていたという説も。天狗党に所属し、死刑を言い渡された時には辞世の句として
「雪霜に 色よく花の魁て 散りても後に匂ふ梅が香」
という言葉を残しています。
郷士出身で神道無念流の師範役だったという立場もあり、「乱暴だが教養があり人情が厚い兄ちゃん」という感じだったのかもしれませんね。
3.芹沢鴨が愛した「お梅」という人物
歴史上の人物には色っぽい話は付きものですが、芹沢鴨にも勿論そういう話がありました。ただし、普通の色っぽい話とは違い出会いからして少々特殊だったようですが…?
(1)呉服問屋の妾・お梅との出会い
後の「新撰組」壬生浪士組を率いる際、どんどん増えていく隊員に色々と資金が必要となりましたがとてもではないですが手持ちでは間に合いません。
そのため芹沢鴨は呉服問屋の菱屋での買い物の支払いを再三の催促をしたにもかかわらず踏み倒したままにしていました。困った菱屋の主人は自分の自慢のお妾さん、「お梅」に催促をしに行ってくれとお願いをしました。菱屋の主人は「美人な女性の頼みなら芹沢鴨もきっと折れてくれるだろう」と思ったからです。
(2)呉服問屋から新撰組へ。芹沢鴨の略奪愛?!
菱屋の主人の頼みで芹沢鴨の元へ出向いたお梅。最初は代金の催促をするも芹沢鴨にあしらわれる日々でした。しかし菱屋の主人の為に芹沢鴨の元へ足繁く通うお梅。その間にどんなやりとりがあったのでしょうか。
詳しい記述はありませんがお梅が芹沢鴨に手籠めにされたという話も…ですがその後もお梅は屯所に通っており、隊員たちにも「美人で愛嬌のある女性」として評判であったため、ここはお梅が屯所へ通ううちに2人の間に「愛が芽生えた」と言っておきましょう。
…菱屋の主人はどうしたのかって?自慢のお梅まで奪われて意気消沈したのか、そのまま結局芹沢鴨に代金は踏み倒されたままだったようですよ。
4.何故芹沢鴨は暗殺されたのか?
芹沢鴨の一生も最後に差し掛かってきました。新撰組の筆頭局長だったにもかかわらず、何故芹沢鴨は暗殺されてしまったのか・しかも敵ではなく本来仲間であった筈の近藤勇達に暗殺されてしまったのか。その謎に迫ります。
(1)隊内で二極化する勢力
近藤派の土方歳三や沖田総司は幼い頃から近藤勇を本当に慕っており、近藤勇についてきて壬生浪士組に加わった完全なる「近藤派」でした。芹沢鴨が筆頭局長となった後もそのスタンスは変わっていませんでした。
しかも芹沢鴨はリーダーシップがあったかもしれませんが酒癖が悪く、問題行動も多々起こしていたため「自分の慕う近藤勇の方が筆頭局長として相応しいのではないか」と思った事もあったかもしれません。
芹沢派の新見錦ら4名も土方歳三たちまでとはいきませんが芹沢鴨を慕っており、壬生浪士組までついてきた仲間たちでありましたし、特に新見錦は素行があまり良くなく「局中法度」を掲げ、それを遵守しようとする土方歳三ら近藤派とは反りが合わない関係でした。
(2)芹沢鴨の最期・暗殺の経緯とは
文久3年(1863年)9月16日、芹沢鴨は八木邸にてお梅と寝ていたところ長州派に襲撃され暗殺された。と伝えられたそうです。
そう、当時は。しかしこの暗殺劇には真相が長年隠されていました。それが明らかになったのは明治に入ってから。新撰組の生き残りであった永倉新八や目撃者だった八木家の当時5歳だった息子が「今なら話せる」と証言したためです。
終わりの始まりは芹沢鴨以外の唯一の役職持ち・新見錦が局中法度にて斬首されるか切腹するかで迫られ、切腹でこの世を去った事でしょう。
新見錦は一番ではないにしろ「局長」という立場を逆手に壬生浪士組としての役目を果たさず遊郭通いに没頭したり、一般人にお金を強請ったりと好き勝手の限りを尽くしたためでした。
その約一か月後といわれる文久3年(1863年)9月16日暗殺日当日、八木邸の現場に集まったのは長州派ではなく土方歳三・沖田総司・山南敬助など近藤派の面子でした。この日芹沢鴨は自分の仲間・部下に暗殺される事となったのです。
実際の事の顛末はこうでした。芹沢鴨らが芸妓と屯所の八木邸でどんちゃん騒ぎをした後そのまま就寝。近藤派の面子はその様子を確認した後芹沢鴨を襲撃しました。
まず同室で寝ていたお梅・芹沢派の平山五郎を殺害。芹沢鴨はギリギリ難を逃れ、八木家一家が寝ていた隣の部屋へ逃げ込みますがその際に八木家の息子が使っていた机に足を取られその隙に近藤派にあっけなく切り殺されてしまったのです。
他にも芹沢派には野口健司・平間重助が当時現場に居たのですが芸妓と一緒にうまく逃げることが出来たためそのまま行方知れずとなりました。この日に芹沢派は誰も居なくなり実質解体。後日盛大に近藤勇が主で芹沢鴨の告別式が営まれたということです。
因みに八木邸は現存しており、机など当時の配置のままで残されています。生々しい柱の刀傷も残されていますので興味がある方は見に行くのもいいかもしれませんね。
5.まとめ
いかがでしたでしょうか。芹沢鴨及び芹沢派は近藤派に内々で暗殺されてしまったために資料が少なく、今の世になって新しい説が出て来るほどです。
今回ご紹介した内容も説の1つで他にも「実は会津藩に依頼をされて、近藤派は芹沢鴨を暗殺した」という説もあります。芹沢派の平間重助らも暗殺の日からの行方が分からないためにもしかしたらそれから長生きしていて、新撰組に関する資料を残しておりそれが見つかる…なんてこともあるかもしれません。
芹沢鴨の愛刀であった備後三原守家正家も、ひょっとしたら新撰組関係者の子孫の方の倉などからひょっこり出て来るのかもしれません。
情報が少ないからこそ、色々想像が広がる浪漫溢れる話ですよね。現在は博物館にて同じ三原派の刀剣を観覧したり模造刀に想いを馳せたりする事しか出来ませんが激動の時代を己の信じるがまま駆け抜けた芹沢鴨が愛した刀をじっくり楽しんでみてください。
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